仙石浩明の日記

自己啓発

2015年11月24日

自分戦略 〜 なぜ成功できないのか?

昨年に続き、 今年も立命館大学で 2, 3回生の学生さん達に講義する機会を頂きました。 就職を目前にした学生さんが自分の進路を考えるにあたって、 社会人の話を聞いて参考にしようという趣旨のカリキュラムのようです。 私は 8人目、 ちょうど真ん中あたりだそうです。

「社会人の話」 というと実際にどのような仕事をしているかとかの、 会社視点の話が多くなりがちだと思いますし、 学生さん達もそういう話を期待していると思うのですが、 あいにく私は現在は働いていません (^^;)。 会社を辞めたのは 2011年ですが、 それまでの 11年間も取締役だったので、 いわゆるサラリーマン的な働きかたをしていたのは 15年以上も昔 (前世紀!) の話で、 すでに忘却の彼方です。

こんな状況で仕事の話はできるわけはなく、 ならばいっそと、 会社視点の話はヤメにして会社と対峙する一個人の視点からお話ししました。 会社で研究者・技術者としてバリバリ専門的な仕事をしている人たちの話とは毛色が違いすぎて、 戸惑っている学生さん達も多かったようですが (40代で働いていない、 というのは学生さんにとってそれなりのインパクトがあるようです)、 学生さん達がこれからの人生を考える上で多少なりとも参考になれば幸いです。

これから社会人になろうとする学生さん達がまずやるのは 「自分探し」 「自己分析」 で、 さらに自分のこれからの人生を切り拓くための戦略を考えたりするそうです。 「自分戦略」 をググると、 「自分のやりたいことを明確にし、それを実現するための手段を練ること」 などと出てきます。

私が学生の時、 自己分析したり戦略を練ったりしてたかなぁ? ぜんぜん思い出せません。 コンピュータにのめり込んでコンピュータを自作してしまったり、 授業そっちのけでソフトウェア開発のアルバイトに没頭したりした記憶はあるのですが、 将来のことなど考えたことは無かったように思います。

私が新卒で就職したのはバブル崩壊真っ只中の 1992年です。 就職氷河期 (1993年〜) に入る直前にギリギリ滑り込みました。 その後の世代と比べれば恵まれた時代だったのでしょう。 とはいえ、 就職でラクをしたぶん昨今ではバブル世代と揶揄されて、 厳しい社会人生活を余儀なくされている人も多いようですが。

そんな中で私が今でもラクできているのは何故なのか? 振り返ってみると、 将来のことを考えなかった割に、 実はとても 「戦略的」 な人生を歩んできたように思います。 「結果論」 とか 「後講釈」 のように見えるかもしれませんが (^^;)、 私の実例を 「単に運が良かっただけ」 と切り捨てるか、 「自分戦略」 として参考にすべき点があるか、 判断は読者のみなさんにお任せします。

私と違って、 いまの学生さん達は 「自己分析」 とかに余念がなく、 それはとても結構なことだと思うのですが、 「自分のやりたいこと」 ってそんなに明確ですか? 「なりたい自分」 と 「やりたいこと」 を混同してませんか? 私にとって 「研究者」 は 「なりたい」 職業でしたが、 研究は 「やりたいこと」 ではありませんでした。 (アルバイトの経験を除けば) まだ働いたこともないのに、 これからどんな仕事をしていきたいのか明確なはずはないと思うのです。 自己分析をすればするほど分からなくなる、 あたりが関の山じゃないでしょうか?

で、 実際の会社選びとなると、 (学生さん達の間で) 人気がある企業とか、 初任給 (or 平均給与) が高くて福利厚生がよい企業とか、 職場環境がよい企業とか、 ブラック企業は何としても避けなければとか、 「自分戦略」 というお題目とは裏腹に、 えらく近視眼的で、 自分の将来どころか数年先すら見通せていないのが現状ではないでしょうか?

自分戦略?

・ 「自分のやりたいことを明確にし、それを実現するための手段を練ること」
・ やりたいこと?
  - 将来も、やりたいことが変わらないのか?
  - 何が向いているかも定かでないのに
・ やりたいことをやって、その後は?
  - 体力が衰えて同じようには働けなくなる
・ とりあえず給料の高い会社へ就職
  - 福利厚生・職場環境がいいところ?
  - 社会貢献できるところ?
・ 将来どころか数年先すら見通せていない
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初任給が高くてもその後の昇給ペースが遅ければ意味がないし、 平均が高くても自分の給料が平均以下なら意味がないし、 平均が低くても自分の給料が高ければ問題無いわけです。 職場環境だって、 会社の中での立場が変われば変わってきます。 新卒入社一年目の社員から見れば快適な職場環境が中堅社員から見ると最悪だったり、 極端な話、 誰が自分の上司になるかで大きく変わることもあります。

そもそも、 現在の 「やりたいこと」 を一生続けたいですか? みなさんが今から 10年前、小学生だった時に 「やりたい」 と思っていたことが、 今でも 「やりたいこと」 なのか考えてみれば明らかでしょう。 今から 10年後には、 今とは全然違うことが 「やりたい」 と思っているかもしれません。

「やりたいこと」 を一生続ける?

・ やってみたら実際は違った
  - プログラミングじゃなくてニーズの汲み上げ
  - 経験を積むと嗜好は変わる / 体力は落ちる
・ そもそも幸せな人生とは?
  - ネガティブにならないこと
  - ネガティブの根本にはいつもお金の問題
  - お金の召使いになってはいけない
・ 年功序列の崩壊
  - 「やりたいこと」 だけでは老後破綻一直線
  - みんなが年金を頼ると国家破綻一直線
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それなら、 今 「やりたいこと」 よりも、 「やりたい」 ことを見つけた時に、 それを 「やれる」 自由度こそが重要ではないでしょうか?

社会人を何年もやっていれば、 予想できない偶発的なことがいろいろ起きます。 その中には自分のキャリアを大きく左右するような事象もあることでしょう。 その偶発的な事象を 「計画的に導くこと」 で、 自分のキャリアを良いものにしていこうという考え方が、 ジョン・D・クランボルツの 「計画的偶発性理論」 です。

成功者を見ると、 「あの人は運が良かった (だけ)」 と思ってしまい、 運に恵まれない自分は決して同じようにはなれないと、 諦めてしまう人が多いのだと思いますが、 運が良くてもその運を活かせなければ成功できません。 「運に恵まれない」 のではなく、 せっかく訪れたチャンスに気付いてないだけかもしれませんよ? 「チャンスは備えあるところに訪れる」 のです。

人生には分岐点が沢山あります。 たとえ八方塞がりに思えるドツボな状況に陥ってしまっていても、 その後の分岐点で最適な選択さえできれば、 ピンチが逆にチャンスになったりします。 ただしそれは、 分岐点に選択肢の幅が十分にあればの話です。

ところが大多数の人はこの 「選択肢」 を進んで捨ててしまいます。 「やりたいこと」 があっても、 いろいろ言い訳 (「時間がない」 「お金がない」 「自分の今の実力ではムリ」 等々...) して挑戦を躊躇います。 ぐずぐずしているうちに歳をとり、 選択肢がどんどん狭まっていくわけです。 なにごともやってみなきゃわからないと思うのですが、 やるまえから 「どうせダメに決まってる」 と諦めてしまっていては選択肢は広がらず、 成功を遠ざけてしまいます

また、 実際やってみてダメだったとしても、 果敢に挑戦することによって新たな選択肢が現れてきます。 まさに失敗は成功の元ですね。 「運が良い人」 というのはそうやって 「運を引き寄せる」 のです。

(戦略1)
選択肢を減らさない

・ 「自分のやりたいこと」 って明確じゃない
  - 「自分探し」 は時間の無駄
  - いろいろ学ぶと興味が持てることが変わってくる
  - やりたいことは手当たり次第やってみるべき
・ リスクを取らないリスク
  - 「みんなと同じ」 はリスク最大
  - 歳をとるごと選択肢は容赦なく減っていく
・ 別の道へ変更する選択肢は残しておく
  - 最悪の事態を常に想定する
・ 計画的偶発性理論
  - チャンスは備えあるところに訪れる
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選択肢を減らさないようにして (戦略1) 運を引き寄せることができたら、 次に必要になるのが運を活かす能力です。 多くの業界において一番重要な能力は 「論理的に考える力」 でしょう。 ところが現代の学校教育は、 この 「考える力」 を伸ばす点においてあまり有効ではないようです。

より正確に言うと、 考える材料をたくさん提供している点においては有効なのですが、 それはあくまで元々考える習慣を持っていた学生さんに対してのみ言えることであって、 義務教育の課程で考える習慣を身につけることができなかった学生さんは、 高等教育において、 ますます考えなくなってしまうという悪循環に陥っています。

極めつけは、 会社選びで 「自分の気持ちを大切に」 などと言う人ですね。 自分の将来という一番合理的に考えなければならない時に、 それも高等教育をちゃんと受けた人が、 「自分の気持ち」 すなわち感情を優先するなんてアリエナイと思うのですが、 いったん考えなくなってしまった人たちは、 自分の気持ちに従うことをオカシイとは思えなくなってしまうようです。

誰でも (どんなに地頭のいい人でも) 一人では考える力を伸ばすことはできません。 なぜなら 「考えたつもり」 に陥って、 そこで思考停止してしまうからです。 自分の考えを他人に話したり書いたりして、 他人から何らかの反応 (批判とか) を受け取って初めて考えるきっかけが生まれるのです。 自分の考えを文章にしてみるだけでも、 自分がどのくらい考えているか (あるいは考えていないか) 分かる場合もあるでしょう。

たとえば、 「答がある問題を解いているだけでは考える力を伸ばせない」 と言ったりしますが、 なぜ 「答がある問題」 じゃダメなのか考えたことはありますか? 「現実の社会は答が無い問題ばかりだから」 という説明で満足してしまっていたとしたら要注意です。 現実社会の問題に答が無いからと言って、 答がある問題を解く練習が役に立たないことにはならないですよね? 中途半端な説明で満足してしまっているのは、 「分かったつもり」 そのものです。

だから、 授業を聞いているだけではダメなんです。 分かっているつもりで聞いていても、 いざそれを自分の言葉で表現しようとしたら、 ぜんぜん言葉が出てこないなんてことがよくあります。 学校教育で考える力が伸びない理由がここにあります (もともと考える力があった人は教えなくても伸びるのでここでは除外して考えます)。 言いたいことがあれば先生の話を遮ってでも発言し、 自分が 「考えたつもり」 に陥っていないか常に確認する必要があります。

幸い、何を言っても許されるのが学生の特権です。 社会人だとキャリアに終止符を打ってしまいかねない発言すら、 学生なら 「若いから」 ということで許されてしまいます。 どうかこの特権をフルに活用して、 「自分の考えを発言する」 習慣を、 学生のうちに身につけてください

はじめに

・ ぜひ、この場でしかできないことを
  - 聞くだけなら、私のブログを読むだけで充分
・ 分からないことはすぐ質問
  - あとでググればいいやなどと思わないように
・ 言いたいことがあればすぐ発言
  - うまく言おうとしないこと
  - 最初は誰だって下手くそ。場数を踏んで上手くなる
・ 空気を読んではいけない
  - こんな発言したら浮く?とか考えていてはダメ
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ハワード・ガードナーの多重知能理論によれば、 人間は進化の過程で

  1. 言語的知能
  2. 論理数学的知能
  3. 音楽的知能
  4. 身体運動的知能
  5. 空間的知能
  6. 対人的知能
  7. 内省的知能
  8. 博物的知能

の8つの知能を発達させてきたとされます。

このうち、科学技術とりわけ IT 技術の進歩により 2, 4, 8 の知能はどんどん重要ではなくなりつつあります。 あと 10年ほどで大半の職業が消えるとか言われていますね。 また、現代社会においては (特定の職種を除けば) 3, 5 は、 さほど重要とは言えないでしょう。

残るは 1, 6, 7 ですが、 なかでも他の知能を伸ばすメタ知能ともいえる 「7. 内省的知能」 が一番重要でしょう。 すなわち、自分自身の 「心」 を理解してコントロールする能力です。 7 の能力を他者に対して発揮すれば 6 になりますし、 1 が重要なのは主に 6 のためですから、結局 7 が一番重要ということになります。

現代社会では何かというと 「自分の気持ち」 を重視する傾向 (自分の気持ち至上主義) がありますが、 自分の気持ちのままに生きれば、 内省する機会は失われてしまいます。 知能は繰り返し発揮することにより伸びるものですから、 内省する機会があまりなければ、 内省的知能が未発達のまま成長してしまうことになります。

(戦略2)
合理的に考える

・ 「お気持ち」 至上主義
  - 「いまのお気持ちは?」
  - 自分の気持ちを大切にしていてはダメ
・ もっと頭を使おう!
  - 使えば使うほど頭はよくなる
  - 授業を聞いているだけではダメ
・ 金融リテラシー = 「恐怖と欲望」 のコントロール
  - 内省的知能
失敗は成功の元
  - 成功できないのは 「失敗」 が少なすぎるから
  - リスクを負わなければ失敗も無い
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運を引き寄せ (戦略1)、 運を活かす能力を磨いたら (戦略2)、 最後に必要になるのが 「敵」 を知ることです。 これから社会に出ていく学生さんが、 当の社会のことを知らなければ出だしから躓くのは必至です。

残念なことに、ここでも学校教育はあまり有効ではありません。 先生がたは社会の矛盾点・問題点を追求することがお好きなようです。 もちろん批判的精神は重要ですし、 社会のあるべき姿を論じ、 学問の力で社会をよりよい形へ変革していくことは大学の使命とも言えるでしょう。

しかし学生さんはその 「社会」 の中でこれから生き抜かなければならないのです。 すでに 「エスタブリッシュメント」 な先生がたなら、 社会を批判しているだけでも周囲から一目おかれますが、 体制の後ろ楯もなく、 何の権力も持たない学生さんがいきなり社会を批判したって、 返り討ちに遭うだけです。 学生さんに今必要なのは、 理想社会の戯言ではなく、 現実の矛盾だらけ欠陥だらけの社会が実際にどう動いているか、 そして丸腰でそういう社会に飛込んで生き抜く方法です。

言うまでもなく現代社会は資本主義社会です。 お金の仕組みを知らずに社会に出ていくことは、 カモがネギをしょって出ていくようなものだと思うのですが、 どうして先生がたはそれを止めようとしないのでしょう? 特にウブな理系の学生さんは、 「優れた技術は高い給料で報われるべき」 などと考え、 社会に出ても自身の技術を磨くことばかりに夢中になってしまいます。 こういう勘違いは実に悲劇的だと思うのですが...

仮にも最高学府で学んでいる学生さん達が、 「努力は報われる」 などといったような素朴な労働観をいまだに持っていることに、 あらためて驚かされます。 製造業 (あるいは農林漁業) が産業の中心だった時代ならば、 労働者一人一人の 「努力」 が生産量の多寡に反映したこともあったでしょう。 労働者にとっても自らの努力の結果が目に見えるので、 努力の方向を間違えることはありません。 生産量が多い労働者の稼ぎが増えるのは合理的ですし、 周囲の納得感を得ることも難しくありません。

しかし今や企業の利益は数多くの労働者の連係プレーによって生み出されています。 技術者だけではお金にはなりません。 努力の結果がすぐに利益の増大という形で見えることは稀で、 あさっての方向の努力をしてしまうことも珍しくありません。 誰がどのくらい利益に貢献しているかなんて (合理的に) 測定することは不可能でしょう。 誰もが納得する利益配分なんて、 それこそ人月で測るくらいしか無いのが実状です。

努力の方向がズレていて残業ばかりしている (傍目には一生懸命努力しているように見える) 人と、 的確な判断のもと効率的に仕事を進めて短時間で仕事を終える (傍目にはあまり努力していないように見える) 人と、 どちらを評価すべきでしょうか? もちろん後者の方が会社に貢献しているのですが、 前者を冷遇すると納得感が失われて社内に不満が溜ります。

つまり、 資本主義が言うように、 給料は労働の対価ではなく、 単に労働力の再生産 (つまり労働者が次の日も納得して働いてくれること) に必要な 「コスト」 に過ぎません。 労働者の技術の優劣と、給料の高低との間に、直接の関係はありません。 もちろんモチベーション向上のために関連性を 「演出」 することはありますが、 結局のところ給料は多くの人が納得する 「相場感」 で決まってくるのです。 努力が報われないなんて、 そんな社会は間違っている!と思いたい気持ちは重々分かりますが、 実際の社会はそういう仕組みなのですから否定したところで始まりません。

努力を認めてもらいたければ、 「努力は報われるべきだ」 なんて受け身なことを言ってないで、 戦略的にアピールして昇給を勝ち取るべきです。 その際、 「労働力を売らない自由」 (後述) があると昇給交渉をより有利に進めることができるでしょう。

(戦略3)
(社会に出る前に) 社会を理解する

・ 学校では社会の問題点ばかりを学ぶ
  - 社会を変えようとする人ばかり量産している
  - 学問の力で社会を変革する、それは大事だけど…
・ 現実の社会=お金の仕組み
  - お金の仕組みを理解しないと搾取される人生に
  - 社会を知らない学生さんは 「カモネギ」
・ みんなの勘違い
  - 優れた技術には高い給料で報いるべき?
  - 給料は労働の対価ではない!
  - 搾取 ≠ ブラック企業
・ 労働分配率が上がっても消費へ回してしまう
  - 搾取され続け、一生 (嫌々) 働き続ける羽目に
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学生さんにとって、 とりわけ喫緊の課題は資本主義社会における 「搾取」 の構造です。 現代における 「搾取」 を正しく理解しない限り、 搾取の餌食になってしまいます。 社会を変革するどころか、 その遥か手前で力尽きてしまうことでしょう。

搾取というとすぐブラック企業を思い浮かべる人が多いと思いますが、 ブラックのレッテルを貼られた企業の業績があっと言う間に悪化したように、 給料を安く抑えようとする手法 (サービス残業とか名ばかり管理職とか) は現代社会においてはあまり賢いやり方とは言えません。 本当の、そして最も警戒すべきは、 搾取と気付かれないだけでなく、 むしろ進んで搾取されることを多くの人が望むような搾取です。

資本主義社会において労働者の立場が弱いのは、 自身の労働力を売らない自由が無い (辞めると生活できなくなる) からです。 通常の売買契約でも売り手が (安い価格でも) 売らざるを得ない (閉店時間間際の生鮮食料品売場とかが該当しますね) のであれば (足元を見られて) 損をするように、 労働力を売らないという選択肢が無ければ、 労働条件に不満があっても受け入れざるを得ません。

したがって、 半年くらいは働かなくても生活できる程度の貯金 (数百万円?) さえあれば、 労働者の立場は劇的に改善するはずです。 しかも、 昨今は給料を安く抑えようとすると、 すぐ 「ブラック」 のレッテルを貼られてしまいますから、 給料が生活費ギリギリということはあまり無く、 本来ならば貯金にまわす余裕があるはずです。

ところが、 給料が上がっても同じくらい支出も増えてしまってほとんど貯金できない、 という人がほとんどのようです。 給料半年分どころか、100万円の貯金すら無い人が多いとか。 いったい何にそんなにお金を使っているのでしょうか? 初任給が 300万円/年だった人が 400万円/年に昇給して、 何年たっても 100万円すら貯金できないというのは意味不明です。

お金をついつい使ってしまう人に是非考えてほしいのは、 資本主義の世の中では、 いかに消費者にお金を使ってもらうか必死に考えている人が大勢いるってことです。 ほとんど全ての場合において、 お金を使いたいと自発的に消費者が思っているのではなくて、 お金を使わせたいとあの手この手で誘惑している人がいて、 消費者はまんまとその策略に乗せられてしまっているだけなのです。

お金を使う決断をする前に、 はたしてその金額が自分の身の丈に合っているか考えてみるべきでしょう。 給料が少なかったときはお金を使わずに我慢できていたことであれば、 それは決して必需品ではありませんよね? 知能が先天的なものか後天的なものか本当のところはよく分かりませんが、 たとえ先天的なものが支配的であったとしても、 マシュマロを我慢する自制心は鍛えるべきだと思います。 「子どもでも大人でも自制心を育むことは可能」なのですから。

支出を増やしてしまうこと以上に問題なのが借金することです。 年収の 5倍もの借金をかかえて、 借金を返すためだけに働いているような人もたくさんいます。 まさに銀行の 「奴隷」 ですね。 なぜ身の丈を大きく超えるような金額の住宅を買わせようとするのでしょうか? 言うまでもなく巨額のローンを組ませて銀行が儲けるためです。

労働者が生み出した剰余価値を奪うことによって、 労働者を労働者階級に固定化することを搾取と定義するなら、 こうした貯金させない社会の仕組みこそが現代の搾取と呼ぶにふさわしいと思います。

(戦略3)
お金の仕組み

・ 給料とは労働力の再生産のためのコスト
  - 「努力は報われる」 はプロパガンダ
  - 報われるのはリスクを負った人のみ
・ 生産者になる前に一人前の消費者に
  - 小学生のころから消費の仕方を学ぶ
  - 時給アルバイトは時間の切り売り。生産ではない
・ 消費の誘惑に満ち満ちている = 搾取の構造
  - なぜ銀行は住宅ローンを勧めるのか?
  - なぜ保険会社は保険を勧めるのか?
・ 資本主義=労働者から生産手段を分離
  - 生産手段 (知能) を取り戻せ!
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以上 3点が、 私が意識せずに実践していた 「自分戦略」 です。 意識していなかったくらいですから大したこととは思っていなかったのですが、 ネット時代になって貯蓄額の世帯分布などを手軽に参照できるようになった昨今、 私と同じくらいの給料をもらっていたはずの人たちにおいても、 大した貯金があるわけではないことを知り、 驚いている次第です。

最初の 100万円を貯めるだけでも労働者としての立場は格段に向上するわけで、 強くなった立場を背景に給料交渉を有利に進めて自身の労働力の価格をつり上げ、 加速度的に貯蓄額を増やしていけば、 労働者階級を脱出する (= 働かなくても当面の生活には困らないし、 やりたい仕事を選べる) ことも現実的な目標となるはずです。 それなのに、 なぜ大多数の人が同様の戦略をとることができないのでしょうか?

「戦略1」 (選択肢を減らさない) は、 自分の適性を知るための戦略です。 世の中は 「自己分析」 が流行りですが、 ちゃんとしたコンサルタントとかに相談するならともかく、 素人の学生さんが一人でやってマトモな分析ができるはずはありませんよね?

「自分のことは自分が一番分かっている」 という思い込みが、 「戦略1」 を実践する障害になっているのではないでしょうか? 実際は、 自己評価より他人からの評価のほうが正しかったりするわけです。 こと自分のことになると、 心理的な防衛本能が働いて真実の姿が見えにくくなります。 自分のことを知るには、 あれこれ考えるより、 やりたいと思うことを実地にやってみるべきです。 とことんやってみれば自分の能力の限界がどのあたりにあるかも、 見えてくることでしょう。

「戦略2」 (合理的に考える) は、 自分の知能を向上させるための戦略です。 小学校から大学まで 16年 (大学院までいけば 18年も!) 学ぶのに、 考える機会がほとんど無いことに驚かされます。 学んでばかりいるから考える機会が失われているのかもしれません。 まさに 「学びて思わざれば則ち罔し」 ですね。

「考える」 という言葉は誰もが気軽に使いますが、 実際のところどこまで考えているでしょうか? ほとんどの場合、 考えているのではなくて悩んでいるだけだったりします。 自分の考えを主張している時ですら、 他の人の意見の受け売りに過ぎなかったりしますし、 そもそも 「自分の考え」 を表明する機会ってほとんど無いように思います。 facebook だって、 「今どんな気持ち?」 ですし。 ふつーに生活している限り、 気持ちを聞かれることはあっても、 考えを聞かれることは皆無ではないでしょうか?

映画 「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」 で、 「あなたの本当のお気持ちは?」 と聞かれたときのサッチャーの答がふるってます:

なに
私の気持ちってどういうことかしら
最近は考えより気持ちね
どんな気持ち
なんだか気持ち悪いわ
すみません我々の気持ちとしては
これは今の時代の大きな問題ですよ
人々は感情にばかり左右されて
考えやアイディアなんかはどうでもよくなって
本当に面白いのは
考えとかアイディアなのに
私が何を考えているか聞いて

このあと、 例の有名な 「自分の考えが言葉になる、言葉が行動になる、行動が...」 が続くのですが、 そこでは 「考え」 と 「気持ち」 が混同されていて、 私は何だか気持ち悪く感じます。 前段 (上記引用部分) と 後段 (自分の考えが言葉になる...) は、 同じ人の言葉とは思えません。 まあ、後段は 「父の口癖だった」 のかもしれませんが。

斯くして考える習慣がある人はどんどん知能を向上させていき、 習慣が無い人はどんどん差を付けられていく、 という二極化が進んでしまっているのでしょう。 経済的な格差ばかり注目される昨今ですが、 本当の格差は 「知能」 の格差であって、 経済的な格差はその派生物に過ぎません。

そして 「戦略3」 (社会を理解する) は、 金融リテラシーを身につけるための戦略です。 社会に関する誤った常識が、 社会の本質を理解する妨げになります。 お金を使わせたいと誘惑する側が、 誤った知識を広めようとしているのも、 妨げになっていますね。

誤った知識とは、 例えば 「賃貸より購入の方が良い」 といったようなものです。 その 「知識」 を広めようとしている人 (マンション開発業者とか不動産屋とか銀行とか) が、 その知識が広まることで利益を得ているならば疑ってかかるべきでしょう。 「毎月家賃を払い続けても永遠に家は自分のものにならないが、 ローンなら完済すれば家が自分のものになる」 などと言われて騙されてしまう人が沢山います。

家賃を払う人には安い家に引っ越して負担を減らす自由がありますが、 ローンを抱えている人には負担を軽減する自由はありません。 つまり選択肢を減らしてしまっているわけです。 したがって、 「購入 VS 賃貸」 という比較はナンセンスです。

「戦略3」 を実践する最大の障害が、 お金にまつわる感情です。 ほとんどの人が、 「お金がなくなる恐怖」 と 「お金がもっと欲しいという欲望」 の二つの感情に支配されていて、 お金について合理的に考える余裕が無くなっています。 これでは金融リテラシーを身につけることはできません。

「お金になんか興味はない」 「仕事が好きだから働いているんだ」 と言う人もいますが、 そういう人は今の仕事が好きでなくなったら、 働くのを辞めるのでしょうか? 辞めても生活に不自由しないのであれば問題ありませんが、 多くの人はそうではないはずです。 つまり 「興味がない」のではなくて、 お金について本当は考えなければならないのに、 それを直視できていないだけです。 心理学で言うところの 「否認」 ですね。 「仕事が好きだから働いているんだ」 は 「合理化」 (防衛機制の一つ) でしょう。

なぜ戦略的に動けないか?

・ 戦略1 ⇒ 自分の適性を知る
  - 自分のことは (他人のことより) 知るのが困難
  - 心理的な防衛機制が働く
・ 戦略2 ⇒ 論理的に考える力を鍛える
  - 直観や気持ちを優先してしまう
  - 自分の考えを発表する機会が皆無
・ 戦略3 ⇒ 社会の本質を見抜く
  - 「常識」 に囚われてしまう
  - 大人たちが 「カモネギ」 を狙ってる
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以上のように、 この 3点の戦略には、 それぞれ実践を難しくしている要因がありそうです。 ではなぜ私は実践できたのか?

やりたいことは先送りにせず、 とことんやってみる性格だったのが大きいように思います。 当時は計画的偶発性理論など知らなかったのですが、 何かやりたいと思うより先に行動していました。 やりたいと意識しないうちに、 気が付くと既にやっているみたいな感じで。 また、 知らないことを見つけるとすぐ首を突っ込んでいました。 コンピュータ分野に限らず、 数学、物理学、哲学、社会学、果てはテニスに至るまで、 自分に向いてるかどうかなんて考えずに、 やれるところまでやってみる、 ということを繰り返していました。 戦略1 (選択肢を減らさない) ですね。

中学校 (1979年) の部活動でマイコン部 (当時 PC は 「マイコン」 と呼ばれていました) に入ったのですが、 そのオリエンテーションで BASICっていう言語を使ってプログラミングをするという話を聞いて、 その日のうちに都心の一番大きい本屋へ出かけていって、 当時一冊しかなかった BASIC の入門書 「BASICで広がる世界」 (CQ出版社, 1979年発行) を買って一気に読み、 次の日にはもうプログラムを書き始めていたほどです。

子供のころから好奇心旺盛だった私ですが、 実を言うと考えることは不得手でした。 小学生の時はよく 「分かったつもり」 に陥っていました。 学校のテストで答案によくデタラメを書いたものです。 しかもデタラメを書いているという意識はなく、 自分は分かっていると思い込んで、 正しい答を書いているつもりだったのです。 中学一年生のとき数学のテストで赤点 (30点未満) をとったこともあります。

ところが中学生になって、 とても優秀な同級生が現れたのです。 彼は、一を聞けば十を理解する。 あまりに早く 「分かった」 というので、 信じられずに残りの九を説明しようとすると、 先回りして答えられてしまったほど。 そんな彼が 「分からない」 を連発する。 つまり 「分かった」 と言うのも早いが、 「分からない」 と言うのもとても早かったのです。

そんな彼を見て、 私は 「分からない」 と言えるのはカッコイイことなんだと思うようになりました。 なんとかして自分も、 「分からない」 と言えるようになりたい、 と思ったのでした。 いま思えば、 これが私の人生の転機だったのかもしれません。 戦略2 (合理的に考える) ですね。

以来、 考えるのが好きになり、 大学受験に失敗したのをいいことに、 浪人中の一年間に弁証法とか資本論とかの難しそうな本 (といっても初学者向けの教科書ですが) を手当たり次第に読みまくりました。 難しそうなテーマであればあるほどチャレンジしたくなったのです。 これが資本主義についてもっと知りたいと思うきっかけになりました。 戦略3 (社会を理解する) ですね。 実はこの時、 人文系の本を読みすぎたせいで、 文系へ転向しようかと思ったほどです。 プログラミングの方が好きだったので思い止まり、 結局一年目と同じ情報工学科を再び受験したのですが。

今から思うと、 お金を稼ぐ前に社会の勉強を始めたのは幸いでした。 浪人中はお金が無かったので、 消費したいという欲求が全く起きなかったし、 資本主義について学び始めた後は、 「搾取の構造」 を理解したので消費の誘惑に負けなくなったのです。 収入が増えても消費は増えなかったので、 収入の増分を丸々貯金することができました。 もし現役で大学に合格していたら、 順序が逆になって、 勉強を始める前にアルバイトでお金を手にして、 搾取の罠にはまっていたかもしれません。

いっぽう、 大学生のときパソコン通信や JUNET を知って (1989年)、 これを駆使すれば個人でも有名になれると思ってからは、 どうやって自分を売り込めばいいか考えるようになりました。 企業にとってブランドが最重要であるように、 個人にとってもブランドが資産になると考えたのです。 合理的に考えれば当たり前のことですよね。

もちろん最初は何をすれば自分を売り込めるのか見当もつかなかったのですが、 いろいろ試行錯誤しているうちに、 それなりに注目を集めることもできるようになり、 初めて書いたオープンソース・ソフトウェアである stone は、 そこそこ有名になりました。 私は 「stone の開発者」 として多くのかたに覚えていただけるようになったのです。 stone は私にとって最大の 「資産」 (収入をもたらす源) と言っても過言ではないでしょう。 無料で配布しているソフトウェアが最大の資産ってのが面白いですね。

浪人生の時に資本論をかじったこともあって、 大学生になってアルバイトで数十万円の貯金ができると、 すぐ株の売買を始めました (当時はオンライン取引というとファミコン・トレードだけで、 電話をかけて口頭で売買注文を出したり、 証券会社の窓口で注文したりしていました)。 当時 NTT が株式を公開 (1987年2月9日) したり、 ブラック・マンデー (1987年10月19日) が起ったりと、 世間的に株が注目を集めていたのも、 株の売買を始めようと思ったきっかけの一つだったのでしょう。

もちろん単位株での売買で大した金額ではなかったのですが、 学生にとっては大金です。 損を出すまいと必死になって経済の勉強をしました。 「お金がなくなる恐怖」 が勉強の原動力になったのです。 経済に対する理解が深まれば会社の経営に興味が湧いてくるのは必然で、 2000年に KLab(株) (設立当時の社名は (株)ケイ・ラボラトリー) 会社設立の計画を聞いたとき、 迷わず飛び付きました。

仮に起業が頓挫しても数年くらいは生活に困らない程度の貯金がありましたし、 当時も技術者は不足していましたから、 ここがダメでも再チャレンジの余地は充分あるだろうと思っていたので、 大企業の正社員という安定した 「地位」 を捨ててベンチャーに飛込むことに、 何の躊躇いもありませんでした。 まさに、 備えがあったからこそチャンスが訪れたのです。

私の自分戦略

・ やりたいことは先送りにせず、とことんやってみる
  - 中学1年の時以来、パソコンにのめり込む
  - 大学に入ってパソコンを 「自作」
  - 大学院生の時、個人事業主としてソフトウェア開発
  - 日立に就職後、本業そっちのけでネットインフラ整備
・ 自分ブランド
  - 大学で JUNET を知って (1989年) 以来、試行錯誤
  - stone の開発・発表 (1995年~)
・ 金融リテラシー
  - 小学生の時から株に興味を持ち、大学生の時から売買
  - 「金持ち父さん 貧乏父さん」 (2000年)
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それはベンチャーと技術者との出会いでした。 それまでベンチャーを興そうという人と技術者とでは興味の対象が異なり、 両者の出会いはかなり稀な事象でした。 2000年当時は、 創業メンバに アイディアマン, 技術者, マーケッタ という多様な顔触れが揃うベンチャーは珍しかったのです。 この会社が現在に至るまで発展し続けているのは、 創業メンバの多様性にこそあったのだと思います。 この偶然の出会いを 「単に運が良かっただけ」 と思うか、 それとも 「戦略的に計画された偶発的事象」 ととらえるか、 判断は読者のみなさんにお任せします。

Filed under: 元CTO の日記,自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 09:36
2014年10月14日

お金と自由 〜 なぜ貯められないのか?

先日、 立命館大学で 2, 3回生の学生さん達に講義する機会を頂きました。 せっかくの機会なので、 大学ではまず教わることが無いであろう 「お金」 の話をしました。 学生さん達が社会人になる前に、 是非ともお金について考えてみてもらいたいと常々思っていたからです。

お金も時間も足らないはずがない
(中略)
何でお金がなくなるんだろうって、そっちも不思議なんですよ。 日立ってそんな高い給料じゃないと思うんですけど、 入社当時、お金ってそんなに必要じゃなかったから、 あの安月給でもお金が貯まって仕方なかったんです。 お金が貯まらないって人は、 好きじゃないことにお金を使っているんじゃないの? って思いますね。
例えばですね、 すごく不思議だったから今でも覚えているんですけど、 同期入社の人が、入社早々、みんな車を新車で買ったんですよ。 もちろん好きだったら、買ってもいいと思いますよ。 レーサーを目指しているとか、 峠を攻めたいとかっていう人は買ったらいいと思うんです。
でもそんなに好きでもなくて、たまにしか車を使わないような人でも、 みんな車を買ったんで、不思議だなと思いましたね。 私に言わせるとありえないんですけど。 みなさん、好きでもないことにばっかりお金を使っているんじゃないですかね。

自由な時間は学生さんの方が持っていて、 お金は社会人の方が持っているという違いがありますが、 どちらも無駄遣いする習慣を身につけてしまうと、 一生取り返しがつかないように思うので、 ぜひとも人生これからの学生さん達に伝えたいと思っていました。

多くの人が、 学生時代は月に 10万円以下の生活費で暮らしていたにもかかわらず、 社会人になって急に毎月 20万円以上の 「大金」 を手にし、 いままでやらなかった (できなかった) 消費活動に走り、 お金があればあるだけ使ってしまうという悪い習慣に、 あっと言う間に染まってしまいます。 ひとたびこの悪習に取り憑かれると、 給料が上がっても、 上がったぶんだけ消費が増え、 いつになっても金銭面での余裕ができず、 何をするにもお金がネックになって、 お金に振り回される人生を送ってしまいます。 まさに 「お金は悪い主人である」 の典型ですね。

良い召使い or 悪い主人

・ 良い召使い
  - お金は自由を得るための手段
  - お金をどう使うか主体的に考える
  - チャレンジするための強力な道具
・ 悪い主人 (充分なお金が無いと...)
  - お金は生活の手段
  - 使い方を考えるまでもなく出費がかさむ
  - お金のために働く, お金に振り回される
  - お金を失う恐怖で、チャレンジができない
  - お金の不安がストレスに

日頃ストレスを感じると回答した人に、 その理由を尋ねると、 約 40% の人が 「収入や家計に関すること」 と回答しているそうです。 ストレスの原因としては他に、 「人間関係」 「健康状態」 「子育て」 なども挙げられていますが、 例えば、 職場の人間関係にストレスを感じていても辞められないのは、 転職したくても収入が不安定になるのが怖くて踏みきれないことが多かったりするわけで、 様々なストレスの遠因がお金 (が足らないこと) にあると言っても過言ではありません。

当座の生活に困らない程度の充分な蓄えさえあれば、 ストレスの多くは感じずに済み、 お金に振り回されるのではなく、 お金を 「良い召使い」 として使えるようになります。

そんなこと言ったって、 安月給なんだから貯められないのは仕方がない、 って声が聞こえてきそうですが...

充分なお金ってどのくらい?

・ 年収 300万円なら年 100万円以上貯金
  - 独身なら生活費は月 10万円程度で済むはず
・ 30歳までに 500万円
  - 100万円/年 * 5年
・ 40歳までに 4000万円
  - 350万円/年 * 10年
  - 年収 700万円以上あれば誰にでも貯められる
・ もちろん、やりたいことにはお金を使うべき
  - でも、昨今はお金をかけずに何でもできてしまう

独身で扶養家族を持たない人であれば、 学生時代と同程度の生活費で暮らすことが本来は可能なはずです。 しかも学費を払う必要がないのですから、 正社員であれば初年度においても 100万円以上貯めることは簡単なはずです。 その後、昇給もあるでしょうから、 30歳までに 500万円貯めるのは (正社員であれば) 誰にでもできることでしょう。

私は日立の安月給で 30歳までに 1000万円ほど貯めました。 寮費が月 2000円、 朝夕食は寮の食堂で昼食は社内食堂で食べ、 会社にいないときは寮に併設のコートでテニスをしている、 というほとんどお金を使わない生活をしていたからですが (^^)。

なお、 「お金を貯める」 「貯金」 は、 普通は銀行預金のことを意味しますが、 ここでは貯金してまとまった資産をつくり、 それを元手に投資することまで含むものとします。

その後、 給料が増えても生活レベルをあまり上げずに生活費を年間 200万円程度に抑えれば、 増えたぶんは丸々貯金できるはずです。 もし年収が 700万円以上あれば、 40歳までに 4000万円貯めることも決して難しくないはずです (私は 1億円近く貯めました ^^)。 貯金が 4000万円もあれば、 どれだけ生活にゆとりができるでしょうか。 ストレスの多くは感じずに済むのではないでしょうか。

ところが、 この程度の貯金すら、 ほとんどの人にとっては難しいようです。

なぜ貯められない?

・ お金に関する間違った常識
  - 持ち家は一生の財産 (ローンなら負債)
  - 生命保険は社会人の常識
  - お金は使ってなんぼ (うまく投資できればの話)
  - 「お金に働いてもらう」信仰 (貯めるのが先)
・ お金に余裕があると使ってしまう習慣
  - お金を使うことに慣れてしまう
  - 初任給から一ヶ月間が運命の分かれ道
・ 貯めるメリットが分かってない
  - そんなに貯めて何に使うの?

多くの人は貯金するどころか逆にローンという莫大な借金を抱えてしまいます。 家賃を払う人には安い家に引っ越して負担を減らす自由がありますが、 ローンを抱えている人には負担を軽減する自由はありません。 したがって、 「購入 VS 賃貸」 という比較はナンセンスです。 それなのに、 なぜ家賃を払うより 「お得」 と称して高額のローンを組ませるのでしょうか? もちろん、 銀行が儲けるためです。

扶養家族を持たない新卒社員に、 なぜ生命保険が必要なのでしょうか? 高額療養費制度により高額な医療費を支払ったときは払い戻しが受けられるのに、 なぜ医療保険が必要なのでしょうか? もちろん、 保険会社が儲けるためです。

銀行や保険会社以外も、 「お金は使ってこそ価値がある」 「若いときこそお金は自己投資すべき」 などと、 あの手この手でお金を使わせようとします。 でも、 まだ何の経験もない新卒社員に、 お金の有効な使い方が分かれば苦労はしません。 新卒社員にお金を使わせようと躍起になっている人たちが、 真に有効なお金の使い方を新卒社員に教えるでしょうか? もちろん彼らが教えるわけはなく、 教える義理もありません。 彼らが関心があるのは彼ら自身の儲けだけです。

お金を使わせようとする人以外にも、 「お金に働いてもらおう」 「投資に成功する方法」 など、 「儲かる」投資方法を伝授しようとする人もたくさんいます。 彼らがもし真に儲かる投資方法を知っているなら、 わざわざ他人に教えるのではなく自分で大儲けすればいいのにと思いますが、 わざわざ本を書いたり講演したりして、 わずかばかりの印税や講演料を稼いでいるわけです。 変だと思いませんか?

そういう本や講演にいちいちお金を使っていては彼らの思うツボです。 お金を払う前に、 著者あるいは講演者がどれほどの個人資産を持っているというのか、 調べてみるべきでしょう。 決して、 お金が勝手に働いてくれるわけではありません。 自分の頭で考えて汗をかいて有効な投資先を見つけ出し、 あるいは自分で創り出し、 リスクを取って投資し、 その報酬としてリターンを得るのです。

お金はいったん使ってしまうと歯止めが効きません。 使えば使うほど、 財布の紐は緩くなります。 近頃流行りのソーシャルゲームは、 いかにユーザに最初の 100円を払ってもらうかが腕の見せどころです。 いったん 100円を払ってしまったユーザは、 次の 1000円を払うのに躊躇しません。

世界中の大人達が寄ってたかってウブな若者にお金を使わせようと知恵を絞る中、 お金を使うのを我慢するのは至難の業ですが、 さらに周囲の同僚からも、 「ケチ」 だの 「そんなに貯めてどうするんだ?」 などと、 冷たい視線を浴びることになります。 ほとんどの人が、 お金を貯めるメリットを理解していないのだから仕方ありません。

お金を貯めるメリット?

・ お金を「良い召使い」として使える
  - お金 (生活) のためでなく自己実現のために働ける
  - お金の不安という最悪のストレスから解放される
・ お金 (定期収入) を失う恐怖を克服できる
  - 転職に踏み切れる, 何度でも勝負できる
・ 資本家と対等の立場に立てる
  - 自身の労働を売らない自由 (給料交渉では超重要)
階層の壁を越えるチャンス
  - (詐欺ではない本物の) うまい投資話に乗れる
  - まずは最低でも 1000万円。それ以下では相手にされない

労働者は自身の労働力を売らない自由が無い (辞めると生活できなくなる) ばっかりに、 資本家 (会社) との交渉において立場が弱くなってしまい、 (たとえ労働三法の庇護の下でも) 不利な条件を渋々飲まされるわけで、 「辞める自由」ってのは非常に重要だと思います。

また、 お金 (定期収入) を失う恐怖を克服して、 勝負する自由や、 お金を (生活のためでなく) 自己実現のために使う自由も重要でしょう。 ところが、私が 「お金を貯める最大のメリットは、 自由が得られること」 と話しても、 学生さん達にはイマイチ響かなかったように見えました。

お金を貯めるメリットが分からないというよりは、 自由の価値が分からない、 ということなのかも? と講義を終えてから思い当たりました。 (もし次の機会があれば) 今度はお金だけでなく自由の重要性についてもっと話してみようと思います。

(資本主義における) 給料が 「労働の再生産コスト」 に収斂するのは、 労働者に自由がないからであって、 もし労働者が自由を獲得すれば、 労働者が実際に産み出した 「(使用)価値」 に近いところまで給料が上がることが期待できます。 「労働の再生産コスト」 と同程度の給料でできるのは現状維持だけですが、 それより給料が高ければ 「剰余価値」 が労働者の側に蓄積し、 労働者階級から脱出する道が見えてきます。

階級格差は固定されたものではなく、 一労働者からスタートしても、 階層の壁を越えて資本家側に移ることは充分現実的であり、 お金を貯めれば貯めるほど、 その難度は下がります。 お金を貯めて 「壁越え」 に挑戦する人が増えることを願って止みません。 それこそが閉塞感を打ち破り、 活気に満ちた社会を取り戻す唯一の方法だと思うからです。

成功者を妬んで引きずり降ろそうと足の引っ張り合いをするのではなく、 成功者を正当に評価して後に続く人を増やすことこそが、 真の 「トリクルダウン」 (trickle-down) であり、 社会の成長エンジンになりうるのだと思います。

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2012年12月27日

成功しない方法

「なぜ成功できたか?」を聞きたがる人って多いですよね? でも、そんなこと聞いてどうするのでしょうか。仮に同じことが実践できたとしても、同じように成功できるとは誰も思っちゃいないですよね?

同じように成功するのは無理としても、成功者の話には何らかのヒントがあるんじゃないか?きっとそういうことを期待しているのだと思いますが、考えてみて欲しいのは、成功しなかった人の話は誰も聞こうとしない点。もしかしたら成功しなかった人も成功者と同じことをしていたかも知れません。いわゆる「生存者バイアス」ですね。

例えば、成功できた理由を聞かれて、「自分を信じて、あきらめずに続けたから」などと答えている人をよく見たり聞いたりしますが、こーいう話を真に受けて、素質がない人が自分を信じて突き進んだりしたら、成功確率が上がるどころか、撤退タイミングを逃してドツボにはまってしまうだけです。

まあ、私自身も、「やりたいことをやるのが一番」などと言っていた時期があるので大きなことは言えないのですが、「自分がやりたいことって何だろう?」などと悩み出す人をこれ以上増やさないためにも、ここでは逆に「成功しない方法」について書くことにします。ちなみに「成功しない=失敗」ではありません。失敗は成功の元ですから、むしろ大いに失敗すべきです。

「成功しない方法」を避けたところで成功する保証は何もありませんが、多くのエンジニアが残念なことにこの「成功しない方法」を忠実に実践し、その必然的な帰結として、どんどん成功から遠ざかってしまっています。近年、「エンジニア」という職種が報われない職種になってしまっている一つの原因が、このあたりにあると感じる次第です。

もちろん、いままさに「成功しない方法」を実践している人に対して、このままでは成功からどんどん遠ざかるぞと忠告したところで、そう簡単に方向転換はできないものだとは思いますが、もし、いま「このまま進んでいていいのだろうか?」と思っているなら、少しばかり耳を傾けて頂けると幸いです。

誌面が限られているので、いきなり結論からいきます。「成功しない方法」とは、「選択肢を減らすこと」です。

選択肢と言われてもピンとこないかもしれませんが、人生には分岐点が沢山あります。たとえ八方塞がりに思えるドツボな状況に陥ってしまっていても、その後の分岐点で最適な選択さえできれば、ピンチがチャンスになったりします。ただしそれは、分岐点に選択肢の幅が十分にあればの話です。選択肢が多ければ、リカバリのチャンスがあるということですね。

例えば、選択肢を減らす典型的な方法が、借金をすることです。多くの人が 20〜30年もの長期ローンを組んで家を買ったりしますが、転職したくなったりしたとき、毎月十数万円の返済は重い足枷となるでしょう。借金がなければ思い切って生活を変える選択ができたかもしれないのに、借金があるばっかりに渋々現状維持を続け、ついにはリストラの憂き目に、なんてのはよく聞く話です。

でも、借金よりもっと選択肢を減らす方法があります。それは、自分の気持ちを優先すること。よくいますよね、「これは自分の仕事じゃない」とか言う人 (>_<)。その仕事がどんな仕事か十分に知り尽くしていて、「その仕事をする」という選択肢を除外することが合理的であるなら構わないんですが、多くの人はどんな仕事か知りもしないくせに、「自分の気持ち」だけで判断してしまいます。もしかしたら、やったことがないその仕事に挑戦することが、自分の人生の一大転機になるかも知れないのに。

あるいは、「自分がやりたいことって何だろう?」などと悩む人がいます。「やりたいことを仕事にすべき」などと (私を含めて orz) 多くの人が言ってますが、誰だって最初からそれが「やりたいこと」だったわけではないんです。なにかのはずみに始めたことが、やってるうちに (少し) 好きになり、好きでやるからどんどん熟達し、他の人よりうまくできると余計に好きになり、という好循環にはまって「やりたいことが仕事になる」んです。つまり、最初は好きでなくても自分の気持ちを無視してやってみなきゃ選択肢は増えません。それなのに、悩んでるばかりで始めないから、だんだん歳をとって、やってみるチャンスすら失われてしまいます。

また、多くの人は批判するのが大好きです。昔は飲み屋で、いまだとブログや SNS で、「上司が悪い」「会社が悪い」「社会が悪い」「政治家が悪い」。なぜ人は批判するのでしょう?社会をよくするため?とんでもない、愚痴を言ったって社会は少しも変わりません。誰かを批判すると、その人より自分が偉くなったような気分になれるから、人は批判するのが大好きなのです。

でも、批判によってよくなるのは「自分の気持ち」だけで、自分自身は決してよくはなりません。なぜなら、誰しも成長するには他人から学ぶ他ないからです。でも、「彼はバカだ」と言ってしまったら、その「彼」からは学べません。選択肢がまた一つ減るわけですね。本当に学ぶことが一切無いようなバカなら学ばなくてもいいのですが、ほとんどの場合そうではないでしょう。本当は、学ぶところが一切無いような人に対しては、批判する気にもならないはずです。

自分の気持ちを優先して選択肢を減らす例はまだまだ沢山あるのですが、誌面が尽きたのでこの辺で... もしこの手の話に興味があれば、私のブログ (「仙石浩明」で検索!) を参照してください。

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以上は、 Software Design 誌に寄稿したエッセーです。 2013年1月号 第2特集 「キーパーソンに聞く 2013年に来そうな技術・ビジョンはこれだ!」 に掲載されました。 技術評論社さんの許可を得て、 全文を転載しています。

Filed under: 元CTO の日記,自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 10:20
2011年11月28日

生涯 「こだわらないエンジニア」 宣言

2011年11月28日の KLab(株) 株主総会 (上場前の株主名簿に基づく最後の総会) 終了後、 私は取締役CTO を退任いたしました。 今から遡ること 11年前 2000年8月1日の (株)ケイ・ラボラトリー (当時の KLab の社名) 創業以来、 会社経営については全く無知であった私が何とかここまでやってこれたのは、 ひとえに皆々様方のご指導ご鞭撻のおかげであったと深く感謝いたします。 誠にありがとうございます。 なお、 後任として安井真伸が CTO に就任しました。

11年前、 日立製作所の研究所勤務の一研究員だった私が、 なぜケイ・ラボラトリーの立ち上げに参加したかといえば、 未知のモノに関わるチャンスがあれば、 あまり後先考えずに飛び付いてみる性格だったというのが大きかったと思います。

中途半端に好きな状態で居るのではなく、 興味を持ったのなら、全力で取り組んでみる。 自分の能力がどれくらいのものかと、把握できるまでやってみる。 そして向いてない、止めると決めたらそれ以上は手を出さない。 それを繰り返すことで、本当に自分が好きなもの、 人並み以上の価値を生み出せるものを見つけ出し、 それを仕事にしていったのが仙石氏のキャリアなのだ。

日立では一人の部下も持っていなかった私が、 マネジメントの何たるかを全く理解しないままに、 当時規模は小さかったとはいえ、 エンジニア集団のトップとして責任を負う立場に立ったというのは、 チャレンジというよりは無謀であったかもしれません。

失敗も多かったのですが、 まがりなりにも 11年も続けられたということは、 「経営者」 が向いていたということなのでしょう。 それまで私は自分のことを 100% 技術者 (ちょっとだけ研究者) だと思っていたのに、 マネジメントもそれなりに向いていたというのは発見でした。 「ベンチャー立ち上げ」 というチャンスに後先考えずに飛び付いて本当に良かったと思います。

もちろん、 私がしでかした数多くの失敗で、 多くの方々にご迷惑をおかけしました。 私の未熟さゆえに厄災に遭われた方々 (が本ブログの読者である可能性は低いのですが) にはこの場をお借りしてお詫び申し上げます。

右も左も分からない手探り状態で CTO の仕事を始めて以来、 一貫して自分に課していたことがあります。 それは、 「部下に仕事を任せること」。 ケイ・ラボラトリーの黎明期は、 やるべきことが多すぎて、 それこそ猫の手も借りたい状態だったので、 「仕事を任せること」 を自分に課したというよりは、 手が回らないから結果的に任せた格好になっていただけなのですが、 経営陣の末席を汚しているうちに経営とは何であるか私なりに学ぶ機会もあり、 黎明期を脱した後も、 たとえ自分がやりたい仕事であっても、 部下でもできる仕事であれば敢えて手を出さず、 任せるようにしてきました。

部下を育てなければ会社がまわらないわけで、 「仕事を任せることが重要」 なんてことは誰でも知ってるし、 誰でも実践していることだと思いますが、 自分がやりたい仕事まで手放す、 ということになるとどうでしょうか?

2006年に、 こんなことを書いています:

積極的に今の仕事を捨てるべきでしょう。 部下 (or 後輩) が成長してきて、 自分の代わりがつとまるようになったら、 全てその部下に任せてしまい、 新しいことにチャレンジするわけです。 そうすれば部下も育つし、 自分を変えることができます。 運がよければ新たな成長フェーズに入れるかもしれません。

私は、 チャンスに巡り合ったときに躊躇なく飛び付けるように、 あるいは新しいチャンスに巡り合う確率を上げるために、 取組んでいた仕事がある程度まわるようになったら、 その仕事にはこだわらず、 むしろその仕事を手放して別のことに取組むようにしてきました。

手放した仕事の中で一番大きかったのは、 大学院と日立で計 11年間も続いていた研究者としての仕事だったわけですが、 もし、 ベンチャー立ち上げに参加するチャンスに巡り合ったとき、 研究者としての仕事にこだわってチャンスに飛び付くのを躊躇していたら、 CTO をやってみることもなかったかもしれません。 当時は研究こそ自分の 「やりたい仕事」 だと思っていたのですが、 それを敢えて手放したことで CTO としての仕事に巡り合えたのだと思います。

その CTO の仕事も 2008年の時点で丸 8年になり、 かつての部下が二人も役員に登り詰めるに至って、 そろそろ私が KLab で果たせる役割も終わりが近づいてきたと意識し始めました。 社内で、 ことあるごとに 「CTO を辞めるつもり」 と (誰も本気にしてくれませんでしたが) 言っていましたし、 社外でも公言していました:

KLab を設立してから、どんどん仕事を捨てて自分を変えている (ピーターの法則に陥らないように)。 部下が成長したらすべて任せてしまう。 すべての仕事を部下に振り終えたら、私は CTO をやめる予定。 早く育成しないと。

株式の上場が現実味を帯びてきた頃、 ボトルネックの一つが人事制度でした。 人事は私にとって全く未知のモノでしたから迷わず飛び付きました。 労働基準法を一から勉強したり、 人事マネージャ候補を 20人以上面接したり、 弁護士や社労士の先生方と連係したりと、 初めてのことばかりで失敗もあったのですが得難い経験をしました。 特に人事担当者を採用するための面接は、 技術者の面接とはまるで異質で、 大変勉強になりました。 とはいえ、 私は (予想通り) あまり人事向きではなかったので、 一年程度で人事の仕事は手放して後任に引き継ぎました。

そして無事上場を果たしたいま、 KLab の業績は絶好調です。 過去 11年間の KLab の歴史の中で最も好調な今だからこそ、 11年続いたこの仕事を捨てて自分を変える最適のタイミングだと判断しました。 未練がないと言えば嘘になりますが、 新しいチャンスに巡り合うために敢えて取締役を退任することを願い出た次第です。 私のワガママを快く受け入れてくださった、 真田社長をはじめとする取締役の方々に感謝いたします。

今後は、 まずは様々な人とお話しして、 どこかにチャンスが落ちていないか ;-) 探すつもりです。 私から連絡するかも知れませんが、 もしご関心があればご連絡頂ければ幸いです。 私は今まで何百人 (数えたことがないので正確な数は不明) もの人を面接してきましたが、 面接を受けたのは (新卒時を含めて) 数回程度しかないので、 他社がどんな面接をしているのか大変興味があります ;-)。

私は、 23歳からの 11年間を研究者として、 次の 11年間を経営者として全力で取組んできました。 私はまだ 45歳、 さらにもう 11年間くらいは何か別のことに全力で取組むことができるはずです。

ついでにいうと、 コンピュータに巡り合ったのが 12歳の時なので、 コンピュータを専ら趣味でいじってた期間も 11年間です。 そしてこの 33年間、 コンピュータに対する関心だけは変らず一貫しているので、 根底ではエンジニアが一番向いているということなのでしょう。

私がいままでやってきたことにこだわるつもりはありません。 11年前、 それまで研究者だった私が、 研究にこだわらずに無謀にもベンチャーの立ち上げに参加したからこそ、 今の私があるわけで、 これからも、 そして生涯、 こだわらずに未知への挑戦を続けていきたいと思います。

Filed under: 元CTO の日記,自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 15:59
2010年12月15日

“自分に向いたこと” を見つけ、自分にしか生み出せない価値を持て

今年 8月に、 株式会社ドリームキャリアさんのインタビューを受けました。 ドリームキャリアさんは、 理系学生のための就職情報サイト 「理系ナビ」 を運営している会社です。 いま、 一部の大学で配布中の小冊子 「理系ナビ 10冬号」 の巻頭の 「トップインタビュー」 に掲載されました。 2012年卒 (に限りませんが) の学生さんの就職活動の参考になれば幸いです。

ドリームキャリアさんの許可を得て、 記事全文を転載します:

- o -

“自分に向いたこと” を見つけ、
自分にしか生み出せない価値を持て

KLab株式会社 取締役 CTO 仙石 浩明

会員数 500万人を超えるソーシャルアプリ 「恋してキャバ嬢」 を開発・運営するなど、 ソーシャル、クラウドをキーワードに事業展開を図る KLab株式会社。 その最高技術責任者 (CTO) である仙石浩明氏は、 専門誌でサーバ構築に関する連載を持ったことがあるなど、 業界でも名の知れた人物だ。 自身も IT業界でキャリアを積み、 KLab の取締役として数多くの新卒・中途採用の面接を重ね、 そして入社してきた相当数のエンジニアの仕事ぶりを見つめてきた仙石氏に、 就職先を選ぶ際に気を付けるべきポイントについて話を聞いた。

考える前にやってみる。
そして見つけた自分に向いた仕事

「世の中には、 仕事を楽しんでいない人が多いように感じますね。 どんな仕事をしても良いのですが、 楽しんでほしい。 楽しめないような職業は選んでほしくないのです。 楽しめなければ成長できるはずがない」

これから就職活動を迎える学生に、 このようなメッセージを送るのは KLab株式会社最高技術責任者 (CTO) の仙石浩明氏。 「朝、コンピューターに向かったら熱中してしまい、 気が付いたら夜だった」 というほどのめり込めることを仕事にする仙石氏は、 コンピューターとは中学時代に出会ったという。

ただ、コンピューターばかりにのめり込んでいたわけではない。 高校の時は数学好きで特殊相対性理論にも興味を持った。 哲学にもはまり、 大学で哲学を専攻しようかと真剣に悩んだこともあったが、 最終的には哲学よりも好きだった情報工学を学ぶことに決め、 京都大学工学部に進んだ。

そのまま大学院に進み、 就職活動を迎えた仙石氏は、 日立製作所への入社を選ぶ。 当時、 情報系の研究をするなら NTT の研究所が一番人気。 仙石氏は NEC のインターンシップにも参加していたが、 あまのじゃくな気質を発揮して 「それ以外から選ぼう」 という判断をしたそうだ。

日立に入社した後は、 遺伝的アルゴリズムやネットワーク基盤技術の研究を進める。 だが入社してから、 会社での仕事以上に熱中したのはテニス。 定時であがって、 日没までテニスを続けるような日々だった。

ただ、 そのテニスは半年間しか続けなかった。 「私の場合、 『向いているんだろうか』 と考える前にやってみます。 やってみて向いてないと思えば止めてしまう。 コンピューターの道だけを選んで成功したと人には思われているようですが、 物理、数学、哲学、テニスと試してみて、 止めたものも数限りなくあるのです」 と仙石氏は自身がテニスを止めた理由を説明する。

中途半端に好きな状態で居るのではなく、 興味を持ったのなら、 全力で取り組んでみる。 自分の能力がどれくらいのものかと、 把握できるまでやってみる。 そして向いてない、 止めると決めたらそれ以上は手を出さない。 それを繰り返すことで、 本当に自分が好きなもの、 人並み以上の価値を生み出せるものを見つけ出し、 それを仕事にしていったのが仙石氏のキャリアなのだ。

ほかの人にもできる仕事は最小限に
自分しかやれない仕事にフォーカス

元々、 定年まで働くつもりはなかったというが、 大手企業で働くうちに仙石氏は会社に違和感を覚えるようになる。 上司から指示される仕事は、 ほかの人にでもできるような仕事。 「ほかの人ができることをやっていても差が付かない」 と考えた仙石氏は、 必要最小限で済ませるようになり、 上司から指示されていない自分にしかできない研究に取り組んでいった。

しかし、 そうした働き方が評価されるわけではなく、 仙石氏の給与は年功序列でほかの社員と横一線。 会社から与えられる仕事は、 相変わらず代わり映えしなかった。

そんな時に、 仙石氏のところに1本の電話が掛かってくる。 外資系ヘッドハンティング会社の転職代理人からの転職を勧める電話だったが、 「転職という手段もあるのか」 とその時に初めて意識することになる。

そして転職代理人から薦められたモバイルコンテンツ開発会社に面接へ行ってみたところ、 「新しく研究開発の会社を立ち上げます」 という話を聞く。 当時の仙石氏はベンチャーに興味があったわけではなく、 携帯電話すら持っていないような状況だったが、 「面白いかもしれない。 やったことがないからやってみよう」 と転職を決意する。

そんな経緯で入社したのが KLab の前身となるケイ・ラボラトリー。 CTO に就任した仙石氏は、 世界初の携帯電話向け Javaアプリの開発、 携帯電話端末の技術仕様策定等、 モバイル技術開発会社として業界内で存在感を示す KLab を、 技術面でリードしていくことになる。

“自分にしかできないこと” を
評価してくれる会社の見分け方

仙石氏は自身の経験を踏まえ、 エンジニアが就職先を選ぶのなら、 “自分にしかできないこと” を評価してくれる会社にすべきだと訴える。

「会社は 『この仕事をやってほしい』 と考えて、 誰にでもできる仕事を任せるために人を採用している面もあります。 ですが、 そんな仕事ばかりでは人は成長できません」

自分に向いていること、 やっていて楽しいことを評価してくれる会社。 そんな会社かどうかを見抜くには、 「自分はこんなことを考えている」 と面接で伝えれば良いと仙石氏は助言する。 面接官が興味を持ってくれるのなら、 その会社には見込みがある。 だが、 興味すら示してくれないのなら、 社員一人一人の関心・適性に会社としての興味はないということ。 適材適所ではなく、 会社の都合で仕事が割り当てられると思った方が良いのだとか。

「私なんかは、 大学での研究について話を聞くのが好きですね。 教授に言われてやっている研究ではなく、 自分がやりたいと思って取り組んでいる研究。 その人が今までに熱中したことについて延々とでも話を聞くことで、 ほかの人と違うことをやることに価値を見出せる人かどうか、 簡単に分かります」 (仙石氏)

“自分に向いていること” を
見つけるために設けたどぶろく制度

自分だけにしかできない仕事。 そのための時間を取ってもらうために KLab では 「どぶろく制度」 を設け、 標準労働時間の 10% までなら、 好きなように使えるようにしている。 ただ、 どぶろく制度の目的はそれだけではない。 仙石氏は片っ端から興味を持ったことにチャレンジして “自分に向いていること” を見つけたが、 すべての人がそれを見つけられているわけではない。 「今やっている仕事内容とは違うことに仕事時間を使うことで、 “自分に向いていること” を見つけてほしい。 向いているかどうかを確かめるためには、 転がり込んできたチャンスにチャレンジすることが必要。 『時間がないから』 という理由で動かない人が多いので、 それを言い訳にさせないためにつくったのがどぶろく制度なのです」 と仙石氏は制度の狙いを明かす。

また、 KLab では “自分に向いていること” を突き詰めて “自分にしかできないこと” を身に付けているエンジニアを正当に評価するため、 ダイナミックな人事評価制度を導入している。 基本的に年に一度、 成果と能力に基づいて給与を改定するが、 新卒入社の社員には、 入社から 3年間は半年に一度見直しをかける。 能力のある社員なら、 給与テーブルのグレードを一足飛びで駆け上がっていくため、 入社して数年の間に数百万円の年収差が生まれることもざらにあるのだとか。

質問すること、チャレンジすることで
伸びる 「考える力」

もちろん、 “自分に向いていること” が見つかったからといって、 “自分にしかできないこと” がすぐにできるようになるわけではない。 そのためには自分自身の成長が必要になる。

成長のためには、 「考える力」 が重要だと仙石氏は言う。 例えば、 多くのエンジニアはある程度仕事を覚えると、 あとは惰性で仕事をするようになる。 仕事で分からないところが出てきても、 検索エンジンを使って調べれば、 だいたいの答えが出てきてしまう。 チャレンジが無くなることで、 そのエンジニアの成長はそこで止まってしまうのだ。

そんな仕事スタイルのエンジニアこそ、 誰にでもできる仕事しかできなくなると仙石氏は批判。 「考える力」 とは抽象的な概念なので説明しづらいが、 知りたいことに憶さず質問して興味を持ったことを深掘りしていくこと、 そしてチャレンジすることを通して育つ力だと説明する。

ちなみに KLab では、 自分の興味・関心のあるテーマについて大勢のエンジニア相手に発表させる勉強会を開くことで、 エンジニアとしての成長を促している。 自分が深めたいと考えているテーマを自分の力で考えて発表させることで、 あるいはそれを聞いて質問する力を伸ばさせることで、 社員の成長を促しているのだとか。

格差が進む 20年後のために
自分だけの価値を生めるように

しかし、 なぜそこまで “自分に向いていること” “自分にしかできないこと” にこだわらなくてはいけないのだろうか。 仙石氏はその理由について次のように語る。

「これから就職する学生が迎える将来の社会について、 私はかなり悲観的な見方をしています。 格差社会と言われていますが、 今から 20年後には格差がもっと進むのではないでしょうか。 日本の会社は、 まだまだ昔ながらの年功序列に支えられています。 成果主義が広まっているとは言うものの、 仕事のできる人とできない人とで、 そんなに差は付いていません。 これから就職する学生の皆さんが 40〜50歳になっているころには、 それこそ年収が1ケタ違うのも当たり前にあり得るのではないでしょうか」

実際に 20年前と今とを比べると、 誰にでもできる単純作業のうち、 かなりの部分が技術の進歩によって一掃されてしまった。 現在、 誰にでもできる仕事でお金をもらっている人は、 20年後にどうなってしまうのか。 そう考えていくと、 他人には生み出せない自分だけの価値を持つことが必要なのだと仙石氏は話している。

20年後のあなたは “自分に向いていること” を見つけて、 “自分にしかできないこと” を習得できているだろうか。 本当に成長したいのなら、 「当社が一番適した会社かどうかは分かりませんが、 技術者が会社に依存せず、 自分の価値を築ける一番の会社にしようと、 少なくとも私は本気で考えています」 という仙石氏の居る KLab も、 就職先の選択肢に含めてみてはどうだろうか。

Filed under: 元CTO の日記,自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 15:19
2010年4月2日

「無知の無知」への 3ステップ

KLab(株)は、 2007年から新卒採用を行っています。
今年も例年通り、4月1日に入社式を行いました。

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みなさん、入社おめでとうございます。 社長のお話が終わり、みなさんは挨拶が終わって、 緊張もほぐれてきたのではないかと思います。 ここからは各役員の挨拶なのですが、 なぜか私だけは挨拶だけでなく (長くならない範囲で ^^;) 話もしろということになったらしいので、 話を捻り出してみます。

「考えることが大事」ということは社長のお話にもありましたし、 みなさんも既によく知っていることだと思います。 ただ、 知っていることと実際に実行できることとの間には越えがたい壁があることも事実で、 分かっちゃいるけどついつい考えなくなってしまう、 あるいは考えているつもりが、 いつのまにか深く考えることがなくなってしまうものなのでしょう。 そもそも自分がどのくらい考えているかなんて、 なかなか意識するのは難しいですよね。

入社時にはみんな等しく、 これからは「考える習慣」を身につけよう、 と決意を新たにしたはずなのに、 3年で大きな差がついてしまうのが現実です。 考える習慣を身につけた人がどんどん成長するのに対し、 考えることを習慣化し損なった人は停滞したままなので、 その後も差は広がる一方。 10年 20年もたつととんでもない差になってしまいます。

なぜこんなにも差がついてしまうのでしょうか? ただやみくもに 「考えよう」 としても、 具体的に何をすればいいのかよく分かりませんよね? なので逆に何をしてはいけないかについて今日はお話ししたいと思います。 今日からみっちり 2ヶ月間、 新人研修でいろいろなことを学んでいくみなさんにとって、 「何をしてはいけないか」 を押えておくことはきっと役に立つと思います。

私は仕事柄、 面接をする機会が多いのですが、 お会いする人の中には考える習慣が全くない人もいます。 ご本人にはそういう自覚が全く無く、 人並みには考えていると思っているようなのですが、 私から見ると正に 「人生オワタ」 状態で、 なぜそうなってしまったのだろうかと考えているうちに、 ついついその人の身の上を根掘り葉掘り聞いて人生相談モードへ入ってしまうので、 そういうことを繰り返すうちに、 だんだん原因が見えてきたように感じています。

考える習慣を持たない人に共通する問題点として 「無知の知」 ならぬ 「無知の無知」 があります。 自分が分かってないことを分かってない、 自分の浅慮では到底及ばない領域があることが全く想像できない、 いわば 「井の中の蛙」 状態ですね。 「無知の無知」 状態になってしまうと、 今の自分の考え方で満足してしまい、 今の自分の枠を越えて考えてみようという発想がでてきません。 当然、 考える習慣もなくなってしまうわけです。 なぜこうなってしまうのか? 次の 3つのステップを経て 「無知の無知」 状態に至るケースが多いように思います:

  1. 後で調べればいいや
  2. 何が分からないのか分からない
  3. 分かったつもり

「質問する前に考えろ」 「それくらい Google 検索などを使って調べろ」 「ググれカス」 などと言われるようになったのはいつのころからでしょうか? 確かに何でもかんでも 「教えて君」 では困りますが、 「すぐ質問すること」 = 「悪いこと」 とする風潮はいかがなものかと思います。 こういう風潮が、 「聞くのは恥ずかしい」 「後で調べればいいや」 という意識を生んでいないでしょうか。

ちなみに私は全く正反対で、 「分からないと言える」 = 「カッコイイ」 と中学生の頃から思い込んでるので、 今でも堂々と 「分からない」 を連発しています。 もちろん、 「CTO がこんなことも知らないのか?」 と思われる (^^;) リスクも無いわけではないので、 TPO を考慮せざるを得ないこともあるのがちょっと残念です。

確かに本当に後で調べるのならまだいいのですが大抵は忘れてしまいます。 仮に忘れずに後で調べて言葉の意味を知ったとしても時間は遡れません。 その場で意味を聞いていれば相手と有益な議論を展開できたのかもしれないのに、 その機会は永久に失われてしまうわけです。

そして何より怖いのは、 知らない言葉が出てきても何とも思わなくなってしまうことです。 ふつう、 相手の話の中に意味が取りにくい言葉があれば気持ち悪く感じ、 なんとかその気持ち悪さを解消しようと思うものだと思うのですが、 「後で調べればいいや」 と思ってるとだんだんこの 「気持ち悪さ」 が無くなってきます。 この 「不感症」 が最初のステップです。

そして一つの話の中に知らない言葉がいくつも出てきても、 何とも思わない状態になると次のステップが見えてきます。 知らない言葉が複数出てくれば、 当然話全体が分からなくなるし、 そもそも話自体に興味が持てなくなります。 こうなってしまうと、 「何が分からないか分からない」 状態に陥ります。 いわゆる 「質問したくても何を質問したらいいのか分からない」 状態ですね。

質問しようとしない人に、 「もっと質問しようよ」 と言うと返ってくる言葉が、この 「何を質問すればいいのか分からない」 です。 話を興味を持って聞くということが無くなってしまっているために、 相手が話していない部分を聞き出そうという意欲が失われてしまっています。 もちろん、 人の興味は十人十色ですから、 ある話題に興味が持てないというのは普通でしょう。 問題なのは、 どんな話であっても興味が持てないことにあります。 しかも本人的にはそれが普通な状態なので、 他人の話を興味を持って聞くということがどんな体験だったのか、 もう覚えていなかったりします。 この 「無関心・無気力」 が第2 のステップとなります。

この第2 のステップの怖いところは自覚症状があまり無いことにあります。 自分は 「無気力」 ではない、 と思う人が大半だとは思いますが、 どんな話を聞いても、 質問したいことが思い浮かばないようだと 「第2 のステップ」 がかなり進行中であるわけで要注意です。 なんとか気付いて危機感を持って欲しいですし、 私はことある毎に 「質問しろ〜」 と口を酸っぱくして言ってるのですが、 長年染み付いた習慣というのはなかなか克服できないものなのかも知れません。

第2 のステップは 「分からない」 ということ自体は自覚できているのでまだ救いがあるのですが、 この症状が進むと第3 のステップである 「分かったつもり」 に至ります。 「分からない」 という意識さえあれば何かのきっかけで 「分かろうとする意欲」 が芽生えるかもしれないのですが、 分かっていないこと自体が分からなくなると、 その可能性すら無くなってしまうので末期的です。

何を聞いても 「分かったつもり」 になってしまって、 表面的な理解だけで満足するようになってしまうと、 自分の考え方と相手の考え方が異なっていてもそれに気付かない、 ということが起り得ます。 つまり相手の話を自分の思考の枠内だけで理解してしまうわけです。 まさに 「無知の無知」 です。

と、 いうわけで今日からの研修では決して疑問点を残さないよう、 積極的に質問してください。 また、 「分かった」 と思っても本当に理解しているのか、 今一度自分を疑ってみてください。

例えば、 半年前に内定式で渋滞の話をしました。 忘れてしまった人は私のブログを参照してください。 社会人経験がまだ無いみなさんには、 あの話を完全に理解することはなかなか難しいのではないかと思いますが、 「分からない」 という感覚を持っていますか? そして分からないとすればどこが分からないのか考え、 何を質問すれば自分の理解を深められるか是非考えてみてください。

まだまだ自分は 「分かっていない」 と自分を疑うことこそが、 考えを深めていくために必要なのだと思います。 KLab への入社が、 みなさんの人生において飛躍のきっかけとなることを期待します。

Filed under: 元CTO の日記,自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 13:19
2009年10月1日

新卒の内定者とかけて、がらがらの道路ととく。その心は?

KLab(株)は、 2007年から新卒採用を行っています。
今年も例年通り、10月1日に内定式を行いました。

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みなさん、内定おめでとうございます。 社長のお話が終わり、 みなさんは自己紹介が終わって、 緊張もだいぶほぐれてきたのではないかと思います。 これからの私の話はどーでもいい話なので、 リラックスして聞いてもらえればと思います。

唐突ですが、渋滞が起きる原因って知っています?

みなさん、いきなり何を言い出すんだ、という顔をしていますね?

渋滞が起きる理由なんて、 そりゃ車が多いからに決まってるだろう、 という声が聞こえてきそうです。 確かに道路を流れる車がどんどん増えると、 交通量がある限界を越えると、 渋滞になるのはアタリマエのような感じがします。

でも、 大渋滞が起きているときと、 混んではいるけど流れているときの交通量と、 どのくらい違うと思いますか? あ、もちろん工事や事故などで車線が減っている場合は、 そのぶん交通量は減りますから、対象外とします。 高速道路など流れを妨げるものが特にない道路で起きる、 いわゆる自然渋滞についてのみ考えます。

確かに大渋滞のときって車がたくさん詰まってるので、 交通量が非常に大きいような気がしますが、 みんなノロノロ運転だったり、 ひどい渋滞だと完全に流れが止まってしまっているときもあるわけで、 極端に言えばいくら車の台数が多くても、 スピードがゼロであれば、 ゼロに何台掛けてもゼロですから、 交通量としてもゼロです (正確には、 交通量[台/時間] = 車数[台] * 車速[距離/時間] / 車間[距離])。

ぐだぐだ説明してしまっているからすでにおわかりだと思いますが、 実は普通に流れているときも、 ノロノロ渋滞も、 交通量の観点で言うとほとんど変わりません。 むしろ渋滞一歩手前の流れているときの方が流量は多いかもしれません。

さて私は何を言いたいのでしょうか?

道路というのは押し並べて車を流すことが目的であるわけです。 つまり交通量というのは道路の「成果」ですね。 流れている道路と、大渋滞の道路、 「成果」が変わらないのに大渋滞の道路は大変な苦痛を伴います。

同じ成果が得られるなら、 苦痛が無い方がいいに決まってます。 ところが先月の大型連休のように、 交通量が増えると決まって大渋滞が起きますし、 会社では受注量が増えるとデスマーチが起きたりしますし、 「忙しい忙しい」 が口癖の人は、 TODOリストが長くなればなるほど気が急いてしまって仕事が手につきません。 先手先手で仕事をまわしている人と、 後手後手にまわってしまっている人とでは、 やってる仕事の量自体は大差なくても、 天と地ほどの評価の差がついてしまったりします。

どうやったら渋滞を防げるのでしょうか? 交通量が増えてしまってから防ごうと思っても、 大量の車を前にしては、 なすすべありませんよね。

みなさんは今、がらがらの道路なのだと思います。 どうやったら渋滞を起こさずに成果を出し続ける人生を歩むことができるようになるのか、 これから入社までの半年間じっくり考えてみてはいかがでしょうか。

Filed under: 元CTO の日記,自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 11:46
2008年4月7日

なぜ、「購入 VS 賃貸」 という比較がナンセンスなのか?

分譲マンション (あるいは一戸建) を (ローンで) 購入するのと、 賃貸マンションを借りる (賃借) のと、どちらが得か? という比較の話をよく聞く。 大抵は、ケース・バイ・ケースで片付けてしまうか、 「購入派 VS 賃貸派」などと個人の価値観に帰着させてしまうことが 多いようである。 例えば、 「ローンも家賃も月々の支払いは似たようなものであるが、 購入の場合はローンを完済すれば資産になるのに対し、 借りる場合は家賃を永遠に払い続けなければならない。 一方、 購入の場合は地価が下がったり住環境の変化などのリスク要因もあるから、 購入が得とも限らない」等々...

本当に、ケース・バイ・ケースあるいは価値観の問題なのだろうか?

まず注意しておきたいのは、 「購入」と「賃借」は、対立概念ではないということ。 当たり前の話だが、 「購入」の反対は「売却」であり、 「賃借」の反対は「賃貸」である。 マンションを購入しても、 必ずしもそこに住まなければならないわけではない (税制などを考えれば住む方が得であるケースも多いが)。 購入するにしても借りるにしても、 どこかに「住む」はずであるから、 共通部分である「住む」は除外して比較を行なうべきであろう。

どうやって「住む」を除外したらよいか?

マンションを購入して (他者に賃貸するのではなく) 自らそこに住む場合、 自分自身に対して「賃貸」したと考えればよい。 つまり「賃借人」である自分が、「大家」である自分に家賃を払ってそこに住む、 と考えるわけである。 このように考えれば、 「自宅としてマンションを買う」という行為は、 「マンションを買って (自分自身に) 賃貸」という行為 (つまり不動産投資) と、 「マンションを賃借して住む」という行為に分解できる。

買う ⇒ 不動産投資 + (自分から)賃借して住む
借りる ⇒ (他人から)賃借して住む

このように考えれば、 「賃借して住む」の部分は両者に共通であるから除外して比較することができる。

つまり「買うか? 借りるか?」という比較は、
「不動産投資を行なうか? 行なわないか?」という比較になる。

4000万円の新築マンションを購入するとして、 頭金を800万円(購入価格の2割)、 残り3200万円を金利3%、 35年返済で借りるとした場合、 月々の返済額は12万3000円となる。 頭金800万円を加えた総返済額は約5970万円。 これに固定資産税、維持管理費等の支払いが約1700万円。 結局7670万円の支払いをして、マンションが自分の資産となるわけである。

ここで、 (自分自身に) 月額 12万3000円の家賃で賃貸すると考える。 もちろん家賃の額は任意に設定して構わないのであるが、 ここでは簡単化のため、 家賃をローンの月々の返済額と同額の 12万3000円に設定してみる。

4/19追記: 任意に設定して構わないといっても、 賃借人としての自分が「払ってもよい」と思える額であることが大前提である。 どーせ自分自身に払うのだからいくら高くても懐は痛まない、 などと考えてはいけない。 月々のローン返済額と同程度の家賃を払うくらいなら購入したほうがお得 (つまり 12万3000円以上だと払いたくない)、 と考える人が多数派であるようなので、 設定する家賃は月額 12万3000円を上限とすべきだろう。

すると、賃借人 (つまり自分) から払ってもらった家賃を、 そのままローンの支払いにあてることができて、 固定資産税と維持管理費等の支払いだけでマンションが自分の資産になるわけである。 つまり「大家」としての自分は、 頭金800万円と固定資産税と維持管理費等の1700万円の合計 2500万円だけで、 (35年後には) 4000万円のマンションを手にいれることができる。

おいしい話のように聞こえるだろうか?

もしこの話がおいしい話に聞こえるなら、 マンションは購入すべきという結論になるわけだが、 よく考えてみて欲しい。 まず、 35年後に 4000万円の価値をもっているかどうかは、 そのときのマンション相場次第である。

ここで考慮しなければならないのは、 「果たして地価が今後どのように変動していくか」である。 地価が毎年上昇し続ければマンションの資産価値も上がり続けるので問題ないが、 今の景気を考えると地価の上昇はしばらく期待できず 「地価はもう上がらない」という意見が多い。 正直そのあたりが誰にも明言できないところに 「買うか?借りるか?」の議論がいつの時代もされ、 結局「どっちなの?」に終始してしまうのである。
ここで地価が変動しないと仮定すると、35年後の資産価値は2510万円となる。

地価が変動しないと仮定すると、この話は 「頭金800万円と固定資産税と維持管理費等の1700万円の合計 2500万円で、 (35年後には) 2510万円の資産価値を持つマンションが手にはいる」 という話に変質してしまう。

おいしいと思えた話に影が差してこないだろうか?

とはいえ、 2510万円の資産価値を持つマンションが (35年後とはいえ) 手に入るのだし、 もしかしたら地価が上昇してマンション相場が大幅に値上がりするかも知れない。 先行きが見えない株に投資するよりは、 大化けするかもしれない「不動産」に投資したい、 と判断する人もいるかもしれない。

賃貸の場合は頭金800万円と税金等の1700万円も不要なので、 購入しなければ2500万円の現金資産が残り、 結局は地価が変動しなければどちらも同じなのである。

「結局は地価が変動しなければどちらも同じ」だから、 ケース・バイ・ケースあるいは価値観の問題ということなのだろうか?

実はそうはならない。

なぜなら、 「頭金800万円と固定資産税と維持管理費等の1700万円の合計 2500万円で、 (35年後には) 2510万円の資産価値を持つマンションが手にはいる」 という理解は間違っているからだ。

支払額が合計 2500万円と思った人は、 800万円を (例えば) 銀行に預けておけば、 (低金利の昨今とはいえ) 35年もたてばそれなりの利息がつくということを忘れている。 毎年払い続ける固定資産税と維持管理費等だって、 総額 1700万円も払うわけだから、 同じ金額を 35年間もかけて積み立てていけば 利息が加算されて 1700万円を大きく上回る額になる。

不動産投資を行なうか、行なわないか、という比較をするのであれば、 不動産投資を行なわない場合に 同じ元手 (総額 2500万円) を 他の投資先へ振り向けた時の収益を含めて考慮しなければ、 フェアな比較とは言えないだろう。 他への投資でどのくらいの利回りが期待できるかは投資先に依存するが、 ここでは簡単化のため、 (ローン金利と同率の) 3% の利回りが期待できると仮定してみる。

最初に 800万円を投資し、 1700万円を毎年均等に (つまり毎年 49万円ずつ) 追加投資して、 3% の利回りがあると仮定すると、 35年で 5214万円にもなる。

つまり、

新築価格が 4000万円のマンションを 35年ローンで買ってもいいのは、
ローン完済時に 5214万円以上で売却することが期待できる場合に限られる。

あるいは、(2/3 追記)
値上がりが期待できないのであれば、 自分自身に支払う家賃は月額 12万3000円ではなく、 月額 14万円ということになる。 なぜなら、家賃を 1万7000円増額することにより 年間 20万円を積み立てることができて、 値上がり期待分 1200万円を補填できるからである。
つまり、
「月々のローン返済額と同程度の家賃を払うくらいなら購入したほうがお得」 という考え方は、 ローン完済時に値上がりが期待できない (築35年のマンションを新築価格以上の値段で売却できるだろうか?) 状況下では正しくない。
一般的には、 値上がりどころか老朽化などの理由により 2510万円程度に値下がりしてしまうので、 「補填」すべき額は 2700万円にもなり、 「みなし」家賃は 15万8000円となる。

「土地神話」が崩れた今、 マンションを買うという行為は、 「投資」以外のなにものでもない。 そして、 「個人の投資は必ず余裕資金ですべき」という鉄則は なにも「株投資」の場合だけに当てはまるものではなく、 どんな投資についても当てはまる金言である。

結構な高金利で借金して得たお金で投資する人がいたらどう思うだろうか? 「借金して得たお金」というのは 「余裕資金」から最もかけ離れた資金と言えるだろう。 そんな投資はやめておけ、と誰しも思うのではなかろうか?

しかしながら多くの人が行なっている 「ローン組んでマンションを買う」という行為は、 「借金して得たお金で投資する」という行為となんら変わらないのである。

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Filed under: 自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 08:30
2007年8月9日

脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?

人の「意識」は心の中心ではなく、脳の様々な活動のロガーに過ぎなかった!」で、

脳はなぜ「心」を作ったのか
「私」の謎を解く受動意識仮説
前野 隆司 著

を紹介したら、前野先生の最新作である次の本を頂いた:

脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?
ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史 (ハードカバー)
前野 隆司 著

頂いたから言うのではないが (^^;)、この本は素晴らしい。

なにが素晴らしいかというと、

第5章 哲学者との対話
1 現象学
斎藤慶典 (慶応義塾大学文学部哲学科教授)
2 生態学的心理学
河野哲也 (玉川大学文学部人間学部准教授)
目次から引用

といった感じで、第一線で活躍中の哲学者との対談を行なっている点。

「心」とは何かを探求するのは哲学者、思想家、 そして宗教家の専売だったわけであるが、 科学技術、特にコンピュータの発展にともなって、 情報科学や認知心理学、脳科学の分野からのアプローチが可能になった。 従来のアプローチである哲学と、 新しいアプローチである情報科学とが、 どのような位置関係にあるのか、 対談という形で明らかにしようとする本書は、 とても分かりやすいし、納得感がある。

そもそも、 脳が純粋に物理的な存在 (つまり霊魂とかは含まれていない) であると信じる限り、 「心」もまた物理現象として説明できる日が来るだろうことは疑いようがない。 そして、 オッカムの剃刀を進化論に適用すれば、 「意識」が受動的なものであることは必然の帰結だろう。 つまり、ヒトのみが「自由意志」を (極めて集中的な) 突然変異によって獲得したという (不自然な) 仮説は切り捨てるべきで、 「エピソード記憶」の能力が進化して 「意識」がより強固な「自我意識」へと進化したと考えるべきだろう。

進化の連続性を考えれば、 「意識」は決してヒト特有の特別な能力ではなく、 充分に進化した脳を持っている動物 (例えば霊長類) ならば、 少なくともヒトの赤ん坊と同程度の意識はあるということになる。 もっとも、赤ん坊にどの程度の意識があるのか、よくわからない (^^;) し、 さらに言えば、 ヒト特有の確固たる自我の意識が生まれるのは、 もっと成長してからのような気がする。 反復説 (個体発生は系統発生を繰り返す) を発生後にまで適用可能ならば、 ヒトと類縁の動物は、ヒトの子供と同程度の「自意識」を持っているのかも知れない。

ちなみに、ヒトの脳には一千億個ほどの脳細胞 (ニューロン) がある。 一千億個というと途方もない数のように思ったこともあったが、 いま私が使っているノート PC のハードディスクの容量が、 ちょうど一千億バイト (100GB) である ;-)。 もちろんただ単にデータを記憶しているだけのハードディスクと、 相互に信号を送受信できるニューロンとを単純に比較することはできないが、 ニューロンだって結線を変えようとすれば結構な時間がかかり、 おそらく大多数のニューロンはただ単に過去の記憶を保持しているだけだろうから、 「意識」という機能の「実装」が想像もつかないほど複雑であると考えるのは 無理がある。

だから少なくとも私にとって「受動意識仮説」は、 「霊魂が存在しない仮説」と同じくらい「確からしい」仮説なのであり、 前野先生が高らかに「受動意識仮説」の妥当性を主張し、 伝統的な宗教家の多くが信じている心身二元論を批判するのを読むと、 やや食傷気味になる。

同じような感覚は、ドーキンスの著作を読んでいても感じる。 もう宗教批判は充分だから、もっと発展的なことを考えようよ、 と言いたくなるのは私だけだろうか?

利己的な遺伝子 <増補新装版> (単行本)
リチャード・ドーキンス (著),
日高 敏隆 (翻訳), 岸 由二 (翻訳), 羽田 節子 (翻訳), 垂水 雄二 (翻訳)

というわけで、ややうんざりしながら 前野先生のチャーマーズ批判を読み進めていたのだが、 「第5章 哲学者との対話」に至って、 この本に対する私の評価は 180度転換した。 第1章~第4章は、 工学者である前野先生の言葉で語った他の思想の説明であり批判であるのに対し、 第5章は哲学者の言葉で語った哲学者の思想の説明である。 しかも聞き手は前野先生という工学者である。

実は私は大学生のころ、哲学に興味を持って、 いろんな哲学書を読んでみたことがある。 しかしそのほとんどが、哲学者に対する説明か、 あるいは一般人に向けたものであった。 前者は難しすぎて理解できないし、 かといって後者は表層すぎて本質には程遠かった。 そんなわけで一度は哲学を理解するのを断念したのであるが、 本書における、 情報科学からの哲学へのアプローチと、 哲学者と工学者との対話によって、 私自身の哲学に対する理解が大いに進んだように思う。 難攻不落に思えた哲学が、 情報科学という「武器」を用いることによって、 攻略可能であるように思えてきたのである。

Filed under: 自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 07:41
2006年12月26日

ロングテール戦略が格差社会を生む: 機会均等

仮説: ロングテール戦略が格差社会を生む の検証の三回目 (全七回を予定)。

機会均等

「機会均等」には三つの種類がある。

  • 金持ちになるための機会
  • 貧乏にならないための機会
  • 貧困から脱出するための機会

一番目の「金持ちになるための機会」とは、 例えば「アメリカン ドリーム」のようなものである。 ほとんど全ての人は夢想することはあっても本気で目指そうとは思わない。 本気で目指さないのだから達成できなくても、それは当然だろう。 ほとんどの人が、そういった夢を達成できないからといって、 機会が均等でないことの理由にはならない。

二番目の「貧乏にならないための機会」とは、 「安定した生活」のようなものである。 機会なんかなくても、人並みの努力していれば人並みの生活を維持できると、 かつては信じられていた。 昨今の競争社会は、生活水準が悪くなったと感じる人が増えつつあることから、 努力しても報われない社会だと言う人がいる。 果たしてそうだろうか?

むしろ、「人並みの努力」で中流が維持できた時代が特異だったのではないか? 資本の本質は自己増殖である。 富は富を呼び、お金のないところからはどんどんお金が逃げていく。 もちろん富の再配分によって富の集中を緩和するにしても、 鎖国でもしない限りお金の流れは止められない。 ではなぜ '60年代から '80年代にかけて、 多くの人が中流でいられた (一億総中流) かといえば、 社会全体が成長したから。 何年も2桁成長が続く高度成長期だったからこその現象だろう。

昔、「ドラえもん」の漫画に、「ボーナス1024倍」という話があった。 お金を銀行に預けておくと 10年で約二倍になるから、 100年預けておくと 1024倍になる。 ボーナスを銀行に預けてタイムマシンで 100年後におろしに行く、 という話である。 当時はなんとも思わなかったが、 今から考えると 10年で預金が倍になるなんてのは異常である。 もちろん、実質成長率はそこまで高くないにしても、 今から考えると常軌を逸脱した成長率だった。 しかも 100年後に同じ銀行が存続していることになんの疑いも持たなかった、 というのも今から思えばかなり新鮮な発想である。

高度成長期のような例外的な時代でなければ、 「貧乏にならない」ことは容易ではない。 「人並みの努力」だけでなく、 「機会」を見つけ、それを生かすことが必要である。

三番目の「貧困から脱出するための機会」とは、 「健康で文化的な最低限度の生活」のようなものである。 NHK スペシャル 「ワーキングプア II」の 副題は「努力すれば抜け出せますか」であったが、 「最低限度の生活」は憲法で保証されている権利なのであるから、 努力して獲得すべき性質のものではない。 必要なのは機会均等ではなく、無条件の保証であろう。

というわけで、一番重要なのは二番目の機会均等、 「貧乏にならないための機会」の平等である。 「貧乏にならないため」というのが後ろ向きなので、 多くの人がその「機会」をあまり重視していないようだ。 世の中には、この「機会」はいくらでも転がっているのに 多くの人がその機会をつかもうとしない。 だから資本の論理に立ち向かうことなしに、 ずるずると押し流されてしまっている。

しかも、多くの人はその現実を直視したがらない。 自分達より下に「ワーキングプア」がいるから自分達は「下層」じゃないと 思い込みたがる。 そういう人たちに限って、 「ワーキングプアは自己責任だ」などという。 「自己責任」の元、ずるずると貧乏に落ちていっているのは自分達自身だというのに...

政府の『国民生活に関する世論調査』の中で 「生活程度」についての意識調査の結果を見る限り、 バブル崩壊後も日本国民から一億総中流の意識は抜けていない。 「生活の程度は、世間一般から見て、どの程度と思うか?」という 質問に対する回答で、 「下」と答えた者の割合は、 1960年代から2004年に至るすべての年の調査において、1割以下である。

資本の論理に立ち向かう手段はただ一つ、 「資産を築く」ことである。 ここで言う資産とは、何も金融資産だけに限らない。 「将来の収入をもたらすもの」全てが資産であり、 「将来の支出をもたらすもの」全てが負債である。 そして、 資産の要件は「希少性」と「換金性/収益性」である。 最も効率的な資産である「能力」を例にとれば、 「普通の人にはできないことができる」というのが希少性であり、 「その能力に価値を感じてくれる人を見つける」ことができれば換金できる。

「人並みの能力」に希少性はない。 いつでも代わりの人を見つけられるからだ。 代替可能な人材 (replaceable resource) に支払われる賃金は、 下がることはあっても、上がることは稀である。 ベースアップなどというものは高度成長期のみに許された特異現象である。

では、他人より抜きん出た能力を身につける機会とは何か?

「20:80 の法則」 (パレートの法則) というものがある。 「売上の8割は、全従業員のうちの2割で生み出している」などの経験則が知られるが、 じゃ、その 2割の従業員だけでドリームチームを作れば、 すごい会社が作れるかというと残念ながらそうは問屋がおろさない。 「2割の従業員」がふたたび「20:80」に分かれてしまうのである。 精鋭チームを作ったつもりが、 そのチームの中の多数 (8割) は売上にあまり貢献しなくなってしまう。 逆に、ダメな従業員だけを集めたダメダメチームを作っても、 その中の 2割ほどは頭角を現し、チームを率いるようになる。

つまり能力を向上させる最良の方法は、 自分が上位 20% に入ることを目指せるような集団に属することである。 まさに「寧ろ鶏口となるも牛後となるなかれ」。 上位20% に入ることがどうしても無理なら、 それはその集団が向いていないということである。 牛後に甘んじるよりは思い切って飛び出すべきだろう。

機会均等を押し進めようとするなら、

  • 「再チャレンジ支援」より 「ニート部門
  • 「一斉授業」より「習熟度別指導」
  • 「普通科高校」より「専門高校」
  • 「男女共学」より「女子校」
  • 大企業で中間管理職を目指すより、ベンチャーで経営幹部を目指せ
  • 大企業の研究所で主管研究員を目指すより、ベンチャーで CTO を目指せ
  • 雇われプログラマで人月を換金するより、 世界を変えるオープン ソース ソフトウェアを目指せ

「貧乏にならないための機会」はいたるところで見つけられる。 見つけようとする意志さえあれば。

Filed under: 自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 07:22
2006年8月25日

潜在意識が働いて、新しい洞察が得られる

いま読んでいる本:

フェルマーの最終定理 (文庫)
サイモン シン 著

の中につぎの一節を見つけた (323 ページ):

大事なのは、どれだけ考え抜けるかです。 考えをはっきりさせようと紙に書く人もいますが、 それは必ずしも必要ではありません。 とくに、袋小路に入り込んでしまったり、 未解決の問題にぶつかったりしたときには、 定石になったような考え方は何の役にも立たないのです。 新しいアイディアにたどりつくためには、 長時間とてつもない集中力で問題に向かわなければならない。 その問題以外のことを考えてはいけない。 ただそれだけを考えるのです。 それから集中を解く。 すると、ふっとリラックスした瞬間が訪れます。 そのとき潜在意識が働いて、 新しい洞察が得られるのです。

ついにフェルマーの最終定理を証明したワイルズの言葉であるが、 「潜在意識が働いて、新しい洞察が得られる」という部分に大変共感を覚えた。 「どうやったら無意識の思考をより活性化させることができるか」 考え続けてきた私としては、 我が意を得たりの感がある。

どうすれば無意識の思考をより働かせられるか、 ワイルズは「長時間とてつもない集中力で問題に向かわなければならない」と 表現した。 私は「同時に考えよう (1)」で書いたように、 「日頃から深く考え続けているような事に関しては、 ひらめく頻度が高いように感じる。 おそらく無意識で考え続けているのだろう」と思う。 意識した思考を長時間続けることが必要、 という点で共通しているのが興味深い。

なぜ、無意識の思考を働かせるには、 長時間の意識した思考が必要なのだろう?

なぜ、新しい洞察は、 意識した思考によってではなく、 無意識の思考によって得られるのだろう?

自身の脳の中で何が起っているのか、 そもそも無意識の思考とは何なのか? それが分かれば、 もっと「頭を使う」ことができるかもしれないし、 また自らの能力の限界がどのあたりにあるのか知ることも可能だろう。 ホフスタッターが言うように、 おそらく自由意思は錯覚なのだろう。 受動意識仮説は 「不思議の環」をとてもうまく説明する。

ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環 (単行本)
ダグラス・R・ホフスタッター 著

とはいえ、 脳が自分自身の動作原理を理解する、 などということが本当に可能なのだろうか?
自己言及の環となってパラドックスに陥ったりしないのだろうか?

マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈下〉 (単行本)
ダグラス・R・ホフスタッター/ダニエル・C・デネット 編著

の中の、クリストファー・チャーニアクの短編 「宇宙の謎とその解決」(第17章) に出てくる 「謎の昏睡」を、ふと思い出した。

Filed under: 自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 08:27
2006年8月3日

人の「意識」は心の中心ではなく、脳の様々な活動のロガーに過ぎなかった!

唐突に何かを「ひらめく」という経験は誰しもあるだろう。 「ひらめき」が天から降ってくる、というのは考えにくいので、 意識はしていないものの何らかの思考が脳の中で行なわれ、 その思考の結果が意識にのぼったとき、 「ひらめく」と考えるのが自然だろう。

この意識していない思考、すなわち「無意識の思考」を積極的に活用すれば、 同時に沢山のことを考えられる。 時間を効率的に使えるだけでなく、 自身の脳の中で何が起きているのか理解するきっかけになるのではないかと、 今まで考察を重ねてきた:

意識の「下」に、意識を支える広大な「無意識」がある、 というイメージで考え、 その無意識をもっと活用したい、という思いからいろいろ考えてきたわけであるが、 前野隆司氏のページを読んで、 文字通り天地が引っくり返ってしまった:

脳はなぜ『心』を作ったのか」から引用:

1つの面白い実験結果がある。 人が指を動かそうとするとき, 脳の中の,「動かそう」と意図する働きを担う部分と, 筋肉を動かそうと指令する運動神経が, どんなタイミングで活動するかを計測したカリフォルニア大のリベット博士の実験だ。 結果は実に意外だった。 筋肉を動かすための運動神経の指令は, 心が「動かそう」と意図する脳活動よりも,0.5秒も先だというのだ。 常識的に考えると,まず人の心の「意識」が「動かそう」と決断し, それにしたがって体が動くと予想されるのに,結果は何と逆なのだ。

そうだったのか! それで全て辻褄が合う!

人の「意識」とは, 心の中心にあってすべてをコントロールしているものではなくて, 人の心の「無意識」の部分がやったことを, 錯覚のように,あとで把握するための装置に過ぎない。

まさに、 地球が宇宙の中心で、太陽や星が周囲を回っていると思っていた人が、 地動説を聞かされたときの気分だった。 「無意識の思考」と「意識した思考」の二種類があるのではなく、 「無意識の思考」が全てだったとは。

「あとで把握するための装置」という説明は私にとって、 とても納得のいく考え方だ。 すなわち、無意識の思考は様々なことを「同時に考えている」が、 実際に何を考えていたか、ほとんど忘れてしまう。 ごくわずかな例外が、「意識にのぼった思考」、否、 「意識という記録装置」によって「すくいあげられた思考」ということなのだろう。

同様のことが「夢」にも見られる。 外部刺激が夢に影響を与えることがある。 例えば、目覚まし時計が鳴る音が、 夢の中で電話の呼び出し音として登場するなど。 しかし、因果律で考えれば、目覚まし時計が鳴ることが原因で、 夢の中で電話が鳴ることが結果であるはずだ。 なぜ、

  1. 夢の中で、何かをしているとき、
  2. 電話が鳴る音を聞き、
  3. 受話器を取り上げようと行動しているうちに、
  4. 目覚め、
  5. 目覚まし時計が鳴る音を聞く、

という順番になるのだろうか? 電話が鳴る前に何も夢を見ていないのならまだ理解できるが、 夢なりに脈絡があるシチュエーション (1) で電話が鳴る (2) のである。

どうして外部からの刺激 (2) が原因なのに、 それが結果となるような夢 (1) を「たまたま」見ることができるのか、 とても不思議だった。 私が考えた仮説は、 外部刺激を受けた一瞬のうちに、 夢の全て (1)~(3) (電話が鳴る前の全ての状況を含む) を見て、 そして目覚める、というものだった。

「夢」とは、 寝ている間の無意識の思考の一部を「すくいあげた」ものである、 と考えれば辻褄が合う。 寝ている間、無意識の思考は勝手にいろいろなことを考えるが、 そのほとんどは忘れてしまう。 唯一例外的に覚えているのは、「夢」として意識したエピソードなのであろう。 だから、時系列でいうと、

  1. 様々な無意識の思考が進行中...
  2. 目覚まし時計が鳴る
  3. 目覚まし時計の音の刺激を受けて、無意識の思考「電話が鳴る」が進行する
  4. 目覚める
  5. 「電話が鳴る」思考が、「夢」として意識される

「意識」は元々、「無意識の思考」の後に来るものなので、 因果律的には矛盾がない。 つまり、電話が鳴る音が先で、目覚めるのが後、と 意識する (正確に言えば、そういう記憶が残る) のは錯覚に過ぎない。 意識とは元々そういうものなのだ。

意識とは、脳というコンピュータにおけるロガー (unix で言うところの syslog ;-) に過ぎないのだろう。 つまり、自由意思で何かをしようと決断し、何か行動を起こす、のではなく、 「決断して行動した」という「記憶」が残っている、ということなのだろう。

にわかには信じがたい (人によっては不快とさえ思うかも知れない) 説ではあるが、 「単純なものほど真実に近い」はずであり、 「意識」が「エピソード記憶」のためにある、 という説はとても単純であるように思われる。 ちょうど、「地動説」が (ガリレオの時代の人々にとっては) 信じがたい説であったが、 惑星の見かけの動きを単純に説明できたように。

さっそく前野隆司氏の著書:

脳はなぜ「心」を作ったのか
「私」の謎を解く受動意識仮説
前野 隆司 著

を注文した。 将来のロボットは、本当に心を持つことができるようになるのだろうか?

Filed under: 自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 09:33
2006年8月2日

成長する秘訣は、今の仕事を捨てて自分を変えること

ピーターの法則って知ってますか? ウィキペディアから引用すると:

  1. 能力主義の階層社会に於いて、人間は能力の極限まで出世する。 すると有能な平構成員も無能な中間管理職になる。
  2. 時が経つに連れて人間は悉く出世していく。 無能な平構成員はそのまま平構成員の地位に落ち着き、 有能な平構成員は無能な中間管理職の地位に落ち着く。 その結果、各階層は無能な人間で埋め尽くされる。
  3. その組織の仕事は、まだ出世の余地のある、 無能に達していない人間によって遂行される。

確かに自分の能力を超える地位まで登ってしまうと、 能力が発揮できなくなってしまう、というのはありそうな話です。 地位が上がって無能扱いされるくらいなら、 同じ地位に留まって「有能」であり続けるほうがマシというものです。 特に、 成果主義が浸透しつつある昨今、 「無能に達する」ことは大変なリスクを伴います。 そんなリスキーな出世より、 特定の仕事を極めてスペシャリストになることを選ぶ、 という人のほうが多数派なのかもしれませんね。

しかしながら、 同じ仕事が同じ価値を持ち続けるかどうかは、 時と場合によります。 職人技が価値を生む分野であれば、 一つの「技」に一生をかける価値があるでしょう。 例えば、従来日本が得意としてきた「モノ作り」の分野ですね。 熟練工の「技」は、 機械には真似ができないという価値を持っていました。

では、我らが「ソフトウェア開発」はどうでしょうか? 「ソフトウェア開発はモノ作りではない」ので、 モノ作りのアナロジーで考えていると大きく価値判断を誤ります。 ソフトウェア開発においては、モノ作りと違って、 熟練自体は価値を生まないからです。 10年の経験を積んだプログラマが、 プログラミングを始めて 1ヶ月の新人に負かされる、などということが 起り得るのがソフトウェア開発でしょう。

一つの仕事に一生を賭けようとするなら、 自身の能力のうち普遍的な価値を持つのはどんな能力なのか? 他の人には真似ができない自分ならではの良さとは、どんなことなのか? 自問し続けることが重要だと思います。

一つの仕事に一生を賭けるのではなく、 仕事を変え、自分を変えていく、という道もあります。 単に仕事が変わる (例えば昇進する) だけでは、 ピーターの法則通り、いずれ無能に達してしまいますから、 この道を選ぶにあたっては自分を変えることが必須です。

つまり受け身の昇進ではなく、 積極的に今の仕事を捨てるべきでしょう。 部下 (or 後輩) が成長してきて、 自分の代わりがつとまるようになったら、 全てその部下に任せてしまい、 新しいことにチャレンジするわけです。 そうすれば部下も育つし、 自分を変えることができます。 運がよければ新たな成長フェーズに入れるかもしれません。

Filed under: 元CTO の日記,自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 08:31
2006年7月6日

ロングテール戦略が格差社会を生む: 必要は発明の母

仮説: ロングテール戦略が格差社会を生む の検証の二回目 (全七回を予定)。

必要は発明の母

格差が広がりつつあることの根拠として、 親の資金力が子供にかけられる教育費に影響を与え、 子供の知能に影響する、という点があげられることがあるが、 果たしてそうだろうか? 確かに、お金に糸目をつけなければ いくらでも(授業料が)高い教育を受けさせることができる。 いくらデキの悪い子でも、 教えたぶんくらいは学力が上がるだろう。 しかしながら学力と知能は違う。 知能とは考える力であり、 いい学校にいけば身につけられる、 というものでもない。

学びて思わざれば則ち罔し

教わるだけで考えなければダメ、とは 論語以来くり返し言われ続けてきていることであるが、 考える訓練を学校で行なっているかと言えば、 なかなか心もとないものがある。 少なくとも私の経験だと、 考える習慣というのは学校とは関係のないところで身につけたような気がする。

どういうときに考える習慣が身についたかと言えば、 それは何か不足しているときである。 何か不便なことがある、 あるいは何かやりたいことがあるのだけどできない。 様々な制約をどうやって乗り越えようかと思案しているときに、 ついつい深く考え込む。

私が子供の頃というと高度成長期が終わった頃なので、 世の中にモノは溢れていた。 だから「不足」というとおこがましいのであるが、 当時は大量生産の時代なので、 少数のニーズは切り捨てられていた。 また、一億総白痴化の道具と言われたテレビも、 視聴率至上主義で少数のニーズには見向きもしていなかった。 つまり、 モノが溢れていると言っても画一的な製品ばかりだったし、 テレビなどのマスメディアが提供するサービスも画一的だった。 子供心にも、テレビはつまらない番組ばかりという印象を持った。

だから、好奇心旺盛な子供にとって工夫の余地はいたるところにあった。 買うより作った方が早い、そういう時代だったし、 小学生が電子工作に夢中になるのも珍しいことではなかった。 小学生でもいろいろ考えれば、 大人が驚くような成果を誇示することが可能だった。

「知」に対する渇望

プログラマを目指すのに適した時代、適していない時代」で書いたように、 私がプログラミングを学ぼうとした時代は制約や不足だらけだった。 そもそも入門書が無い。 少なくとも街の本屋にはコンピュータ関係の本は皆無だったし、 大阪梅田の 紀伊國屋書店旭屋書店でさえ、 コンピュータ関連書籍のコーナと言えば、せいぜい本棚一つくらいのものだった。 そんな希有な本棚を見つけ出せたとしても、 現在みたいに手取り足取り教えてくれる入門書なんてあるわけがなく、 大学の専門課程の学生向けの専門書を、 わずかな手がかりをもとに当時中学生だった私が読み解いていくのである。 まさに「読書百遍、意自ら通ず」の世界である。

そんな私が、初めて 八重洲ブックセンターを 訪れたときの感慨を理解して頂けるだろうか? 大げさに聞こえるだろうが、まさに砂漠で一杯の水を見つけたような気分だった。 一日中ここですごしたいと思ったものだ。

そうやってあちこちを探しまわって なんとか入手した 6502 のデータシートに記載されていた ニーモニック表を手がかりに、 まるで暗号解読をするように一命令づつその動作を想像し、 ついにはハンドアセンブルできるようになった時の達成感、 そしてハンドアセンブルして作ったバイナリコードを PET 2001 に打ち込んで実行し、 BASIC とはケタ違いのスピード ──まさに一瞬だった── を 目の当たりにしたときの感動は、 今でもありありと思い出すことができる。

「知」に対する渇望があるからこそ、 人は学び考えるのだろうと思う。 渇望するより先に与えられてしまったとしたら、 果たしてそれを学び考えようとするだろうか? 少なくとも若かった頃の私にそれができたかというと、 はなはだ自信がない。 いつでも学べると思うと、 「時間ができたら勉強したい」と 後回しにしてしまいそうな気がするのである。

不足(ニーズ)あるところに商機あり

多品種少量生産の時代になって久しい。 どんなニッチなニーズでも、 それを満たす製品ないしサービスがたちどころに開発されて提供される。 しかも IT技術によって全国津々浦々、どこにいてもその恩恵を受けられる。 やっとの思いで上京して八重洲ブックセンターに行く必要はないのである。 かゆいところに手が届くサービスが湯水のように提供されているのに、 どうして不足を感じることができるだろうか。 まして「渇望」とは無縁であろう。 世の中これだけ便利になってしまうと、 どうやって工夫すればいいのだろう? テレビが成し得なかった「一億総白痴化」を IT技術が達成してしまうのだろうか。

いや、そんなことはない、 インターネットの時代では、 消費者は単に消費するだけでなく、 自ら情報を発信していく、 生産者的かつプロフェッショナルな消費者 つまりプロシューマだ、 という人がいるかも知れない。 それはその通りだろう。 一部の消費者は「消費者」の枠に留まらず、 どんどん活躍の場を広げていくことだろう。 しかし、 そういった活躍をするのにも知能は必要である。 身近なところで考える訓練を積むことなく、 いきなりインターネットの世界に晒されては、 情報発信以前に、 あっと言う間に魑魅魍魎の餌食になるだろう。

Filed under: 自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 06:29
2006年6月13日

ロングテール戦略が格差社会を生む: 究極の搾取

仮説: ロングテール戦略が格差社会を生む の検証の一回目 (全七回を予定)。

究極の搾取

剰余価値が生まれて以来、 持つ者が持たざる者を 搾取する、 という構図は変わらない。

産業革命の時代、資産とは生産諸手段だった。

情報革命の今日、資産とは知能である。

頭のよい者が儲け、頭がよくない者は自覚のないままに搾取されている。 搾取と言っても、一人一人の額は微々たるものだから、気付かないのだろう。 たまに、「ボロ儲け」した奴はけしからん、と一部の金持ちが槍玉にあげられるが、 本当の金持ちは目立たないようにしているものだ。 一人一人に対する搾取は極めて少額でも、 情報技術の力によって集めれば莫大な額になる。

かつて「搾取」が持っていた暗いイメージはもはやない。 産業革命時代の搾取と違って、 今日の搾取には悲惨さは微塵もない。 かつての搾取はその悲惨さによって下層階級を固定していたが、 今日の搾取にはその力はない。 したがって産業革命時代と異なり、 今日は搾取それ自体が格差社会を生んでいるわけではない。

その一方で、富を集積する力は従来と変わらず圧倒的である。 しかも、産業革命時代の機械と比べると、 今日のコンピュータおよびネットワークは、 費用対効果が極めて高い。

圧倒的な効率で富を集積する力を持ち、 しかも負の側面をほとんど持たない。
まさに究極の搾取と呼ぶにふさわしいだろう。

Filed under: 自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 07:47
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