仙石浩明の日記

2006年3月29日

分からない時は、『分からない』と言おう (3)

「分からない」と言えることが重要だと私が感じるようになったのは、 実は中学・高校時代に遡ります。 中学の時も、高校の時も、それぞれ同級生に、 とても優秀な友人がいました。 そしてどちらに対しても、とても敵わないと思ったものでした。

例えば、何かの説明を彼にしようとして、 頭の中で説明の筋道を考えた上で彼に話しはじめると、 まだ 10 のうち 1 ほども説明していないのに、 「分かった」と言われてしまったことがしばしばでした。 まだ説明は序の口にも到達していないような状況だったので、 話はこれから面白くなるのにと思いつつ、 佳境の部分を端折って説明しようとしたら、 先回りして 「要するに○○ということだろう!」 と要点だけ言われてしまいました。

異常に早く「分かった」と言う彼でしたが、 「分からない」も連発していました。 当時の私には、 彼ほど優秀な人がなぜ「分からない」と言うのかとても謎でした。 私にとっては、 「なるほどなるほど」と相槌を打ちたくなるような話 (別の友人が話した話題だったり、 数学の証明だったり、 コンピュータの仕組みの説明だったり、 SF の設定だったりしましたが) に対しても、 彼は「分からない」と言うのです。

なにぶん 20年以上も前のことなので詳細は覚えていないのですが、 どこが分からないのか問い詰めていったら、 実は私も分かっていなかったことが判明して、 「なるほど!」と腑に落ちたことだけは覚えています。

いかに簡単に、 分かったつもりになってしまうか痛感した瞬間でした。

分かったつもりになっているだけなのか、 ちゃんと分かっているのか、 なかなか判別できるようにはなれなかったのですが、 彼と同じ内容について見聞きした後、 彼が分からない、 というかどうか聞くのが楽しみになりました。

自分は分かったと思っても、 彼が分からない、と言った時は、 慌てて自己の思考過程を振り返り、 どこに論理の飛躍があるのか一生懸命考えたものです。 どう考えても自明なことのように思われるのに、 彼が「分からない」と言った時は、 それはそれは彼が立派に見えたものです。

そんなわけで私は、 「分からない」と言える人を尊敬してしまうようになったので、 「『分からない』と言うことが恥ずかしい」 と思っている人に対して違和感を覚えるのです。

Filed under: 自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 09:36

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