仙石浩明の日記

2006年7月6日

ロングテール戦略が格差社会を生む: 必要は発明の母

仮説: ロングテール戦略が格差社会を生む の検証の二回目 (全七回を予定)。

必要は発明の母

格差が広がりつつあることの根拠として、 親の資金力が子供にかけられる教育費に影響を与え、 子供の知能に影響する、という点があげられることがあるが、 果たしてそうだろうか? 確かに、お金に糸目をつけなければ いくらでも(授業料が)高い教育を受けさせることができる。 いくらデキの悪い子でも、 教えたぶんくらいは学力が上がるだろう。 しかしながら学力と知能は違う。 知能とは考える力であり、 いい学校にいけば身につけられる、 というものでもない。

学びて思わざれば則ち罔し

教わるだけで考えなければダメ、とは 論語以来くり返し言われ続けてきていることであるが、 考える訓練を学校で行なっているかと言えば、 なかなか心もとないものがある。 少なくとも私の経験だと、 考える習慣というのは学校とは関係のないところで身につけたような気がする。

どういうときに考える習慣が身についたかと言えば、 それは何か不足しているときである。 何か不便なことがある、 あるいは何かやりたいことがあるのだけどできない。 様々な制約をどうやって乗り越えようかと思案しているときに、 ついつい深く考え込む。

私が子供の頃というと高度成長期が終わった頃なので、 世の中にモノは溢れていた。 だから「不足」というとおこがましいのであるが、 当時は大量生産の時代なので、 少数のニーズは切り捨てられていた。 また、一億総白痴化の道具と言われたテレビも、 視聴率至上主義で少数のニーズには見向きもしていなかった。 つまり、 モノが溢れていると言っても画一的な製品ばかりだったし、 テレビなどのマスメディアが提供するサービスも画一的だった。 子供心にも、テレビはつまらない番組ばかりという印象を持った。

だから、好奇心旺盛な子供にとって工夫の余地はいたるところにあった。 買うより作った方が早い、そういう時代だったし、 小学生が電子工作に夢中になるのも珍しいことではなかった。 小学生でもいろいろ考えれば、 大人が驚くような成果を誇示することが可能だった。

「知」に対する渇望

プログラマを目指すのに適した時代、適していない時代」で書いたように、 私がプログラミングを学ぼうとした時代は制約や不足だらけだった。 そもそも入門書が無い。 少なくとも街の本屋にはコンピュータ関係の本は皆無だったし、 大阪梅田の 紀伊國屋書店旭屋書店でさえ、 コンピュータ関連書籍のコーナと言えば、せいぜい本棚一つくらいのものだった。 そんな希有な本棚を見つけ出せたとしても、 現在みたいに手取り足取り教えてくれる入門書なんてあるわけがなく、 大学の専門課程の学生向けの専門書を、 わずかな手がかりをもとに当時中学生だった私が読み解いていくのである。 まさに「読書百遍、意自ら通ず」の世界である。

そんな私が、初めて 八重洲ブックセンターを 訪れたときの感慨を理解して頂けるだろうか? 大げさに聞こえるだろうが、まさに砂漠で一杯の水を見つけたような気分だった。 一日中ここですごしたいと思ったものだ。

そうやってあちこちを探しまわって なんとか入手した 6502 のデータシートに記載されていた ニーモニック表を手がかりに、 まるで暗号解読をするように一命令づつその動作を想像し、 ついにはハンドアセンブルできるようになった時の達成感、 そしてハンドアセンブルして作ったバイナリコードを PET 2001 に打ち込んで実行し、 BASIC とはケタ違いのスピード ──まさに一瞬だった── を 目の当たりにしたときの感動は、 今でもありありと思い出すことができる。

「知」に対する渇望があるからこそ、 人は学び考えるのだろうと思う。 渇望するより先に与えられてしまったとしたら、 果たしてそれを学び考えようとするだろうか? 少なくとも若かった頃の私にそれができたかというと、 はなはだ自信がない。 いつでも学べると思うと、 「時間ができたら勉強したい」と 後回しにしてしまいそうな気がするのである。

不足(ニーズ)あるところに商機あり

多品種少量生産の時代になって久しい。 どんなニッチなニーズでも、 それを満たす製品ないしサービスがたちどころに開発されて提供される。 しかも IT技術によって全国津々浦々、どこにいてもその恩恵を受けられる。 やっとの思いで上京して八重洲ブックセンターに行く必要はないのである。 かゆいところに手が届くサービスが湯水のように提供されているのに、 どうして不足を感じることができるだろうか。 まして「渇望」とは無縁であろう。 世の中これだけ便利になってしまうと、 どうやって工夫すればいいのだろう? テレビが成し得なかった「一億総白痴化」を IT技術が達成してしまうのだろうか。

いや、そんなことはない、 インターネットの時代では、 消費者は単に消費するだけでなく、 自ら情報を発信していく、 生産者的かつプロフェッショナルな消費者 つまりプロシューマだ、 という人がいるかも知れない。 それはその通りだろう。 一部の消費者は「消費者」の枠に留まらず、 どんどん活躍の場を広げていくことだろう。 しかし、 そういった活躍をするのにも知能は必要である。 身近なところで考える訓練を積むことなく、 いきなりインターネットの世界に晒されては、 情報発信以前に、 あっと言う間に魑魅魍魎の餌食になるだろう。

Filed under: 自己啓発 — hiroaki_sengoku @ 06:29

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